上賀茂を流れる、川に架かる社家の橋が印象的な小川
上賀茂を流れる川。賀茂川から分流し上賀茂神社境内でならの小川となり、境内を出て社家町で明神川となる。
土塀の屋敷が集まる社家町を含め一帯は重要伝統的建造物群保存地区に指定、川に架かる社家の橋が印象的。
川沿いにある大きな楠の藤木社は上賀茂神社の末社で明神川の守護神として信仰
明神川(上賀茂社家町)のみどころ (Point in Check)
明神川源流~上賀茂神社「ならの小川」
「明神川」は京都市北区上賀茂を流れる鴨川由来の全長約4.5kmの水路で、今から1300年以上前に上賀茂地域に移住してきた賀茂族が開削し、この地域に繁栄をもたらしたといいます。
賀茂川を源流として上賀茂神社境内の北端から北西に位置する上流へ900mの所にある志久呂橋の下流の「明神井堰」から取水され、「京都ゴルフ倶楽部上賀茂コース」というゴルフ場内を流れ、途中敷地内にある上賀茂神社の神館跡・御生所のそばで「御生川」となった後、上賀茂神社の境内へと向かいます。
そして境内へと流れてきた水は現在はゴルフ場となっている円山(小丸山)にある蟻ヶ池と小池からの流れが境内の直前で合流し楼門前へと流れ出てくる「御物忌川(おものいがわ)」の水と片岡橋と玉橋をくぐった先で合流し、以降は「御手洗川(みたらしがわ)」と名前を変えて橋殿(舞殿)の下を流れ、渉渓園そばの夜具橋をくぐった所で「ならの小川」と名前を変え、三ノ鳥居(奈良鳥居)前に架かる神事橋を過ぎると一気に南下し、一の鳥居のやや東側に架かる酒殿橋をくぐって境外へと出ていきます。
これらの流路のうち「御手洗川」は京都三大祭りの「葵祭」にて斎王代が禊の儀を行うほか、6月末の「夏越の祓」や年末の「大祓式」にて人形流しが行われる場所として知られています。
また「ならの小川」は「小倉百人一首」にも撰ばれている藤原家隆(1158-1237)の公家たちが人形の紙を川に投げ入れ、罪や穢れを祓い清めた夏越の祓の禊ぎの情景を思い起こさせる「風そよぐ ならの小川の 夕暮れは みそぎぞ夏の しるしなりける」という歌でも知られている川で、この家隆が詠んだ歌を刻んだ歌碑がならの小川の西岸に建てられています。
現在は川沿いの道を散策したり子供を連れた家族連れなどが水遊びをして楽しむなど、憩いの場として親しまれているほか、秋には紅葉が美しいことでも知られている場所です。
上賀茂社家町と「上賀茂伝統的建造物群保存地区」
賀茂神社の境内を流れ出たならの小川は、直後に流れは2つに分岐して、一つは南西へと流れて賀茂川へ、もう一つは上賀茂神社の前を東西に通る上賀茂本通(藤ノ木通)の南側を並行する形で東へと流れていき、以降は再び「明神川」の名前となります。
そしてこの上賀茂神社前から明神川に沿って東へと続く上賀茂本通(藤ノ木通)の道沿いには、室町時代から代々上賀茂神社に神官として仕えた社家(しゃけ)と呼ばれる人たちの屋敷が立ち並び、「社家町(しゃけまち)」と呼ばれる町並が形成されていることで知られています。
神職は仕える神社のすぐ側に家を構えることが多いため、特に大きな神社ともなれば数多くの神職たちの屋敷が建ち並び大規模な社家町が形成されることも珍しくはありませんが、江戸時代の上賀茂神社の社領は2500石余とかなりの広大な規模であったため、その規模は大きく275軒あったといわれています。
明治以降は世襲制が廃止されたために社家の数は徐々に減少していき、明治の終わり頃にはおよそ150となり、現在は20数軒が残るのみとなっていますが、それでも全国的には社家町がまとまって残っているのは島根県の出雲大社と奈良県の春日大社ぐらいで、上賀茂の社家町のようにまとまった規模で残されているのは全国的にみても珍しいといいます。
それに加えて上賀茂神社の社家町においては建物が上賀茂神社の本殿より高くなってはならないとされていたことから、平屋ないしは二階建ての建物までに抑えられてきたことで、整然とした美しい街並みが形成され、
更に「豕扠首(いのこさす)」と呼ばれる独特の妻飾りを持つ主屋を、上部に鳥居の貫(ぬき)に似た横木を付け鳥居に見立てた門と土塀とで囲い込み、前庭や生垣の樹木と門前を流れる明神川、そして川に連続して架かる門前の小さな橋などが独特の趣ある景観を構築しており、歴史的かつ文化的に保護する価値の高いものとして、1988年(昭和63年)に国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されています。
また伝統的建造物群保存地区の周辺地域22hが1997年(平成9年)に京都市より「界わい景観整備地区」の指定を受け、景観保全の取り組みが進められています。
このうち「上賀茂伝統的建造物群保存地区」の指定範囲は2.7haで、上賀茂神社一の鳥居の東側の三叉路から、上賀茂本通(藤ノ木通)を東へ進んだ約300m、上賀茂神社の境外末社で、明神川の守護神として信仰されてきたという樹齢500年の楠が印象的な藤木社(ふじきのやしろ)までの間までの建物が対象となっています。
対象となっている屋敷は土産物屋や料亭などの店舗や病院、そして普通の民家となっているものもあり、その多くは観光目的での見学はできませんが、一般開放を行っている社家としてよく知られているのが「西村家別邸」です。
元々は代々神社に仕えた神職の家柄である錦部家(にしごり)の邸宅でしたが、明治20年代に西陣にて織物業を営んでいた7代目・西村清三郎が別邸として購入し、現在の主屋は1904年(明治37年)に建造されたものです。
そして庭園については現存する社家庭園の中でも最も昔の面影をとどめる貴重なものとして1986年(昭和61年)6月2日に「西村家庭園」として「京都市指定名勝」に指定されています。
西村家庭園は平安後期の1181年(養和元年)に上賀茂神社の第18代神主・藤木重保が作庭したものといわれていますが、重保は千載・新古今・玉葉・風雅などの勅撰和歌集にも作品が収録されている歌人としても有名な人物で、社前で歌合わせを度々主催したほか、1182年(寿永元年)には曲水の宴を設けたことも記録に残されており、また第77代天皇である後白河法皇はことのほか賀茂社を崇敬し重保の在職中に再三にわたって行幸されたと伝えられています。
この点、社家庭園ではこの地域特有のものとして、土塀下の石垣に小さい取水口を設けて明神川の水を邸内へ引き込み、再び川に戻すという水利用形式が見られるのですが、西村家別邸においてもまさにその形式が導入されていて、他の社家庭園では池とするのがほとんどな中、当家の庭園は曲水の宴を催すために「曲水川」と呼ばれる2筋の遣水(やりみず)として利用されているのが印象的です。
そして神官はこの邸内に引き入れた水を使って禊ぎをして身を清めたといわれていて、庭園の一角には冷水を浴び身体の穢れを取り去る水垢離(みずごり)の場とされたと思われる深さ1m余りの円形のくぼみが「井戸」として残されています。
更にもう一つの特徴として上賀茂神社の御神体山である神山(こうやま)の「降臨石」をかたどったと伝えられる石組みも設置されていて、社家の庭園らしさを際立たせています。
上賀茂社家町と「上賀茂郷界わい景観整備地区」
「上賀茂伝統的建造物群保存地区」の指定範囲の外にも社家の遺構とされる建物は残されていて、そのうち「井關家住宅(井関家住宅)」「梅辻家住宅」「岩佐家住宅」の3つが京都市指定登録文化財に登録されています。
藤木社のT字路を1筋東へ進んだ角にある「井關家住宅(井関家住宅)」は代々上賀茂神社に仕えていた社家で、賀茂16流のうち「直(なお)」の流れに属する家柄で、社家住宅としての外観を整えた江戸後期の主屋に明治初期に3階建に増築されたという望楼風の建物「石水楼(せきすいろう)」が印象的。
かつて社家の家では神事などに使うため譲葉、榊、小賀玉木の3つを必ず植えていたといううちの一つである大きな「小賀玉木」も植えられており、上賀茂の社家住宅の屋構えをよく伝えている貴重な遺構です。
現在はちりめんを使った手作りの匂い袋や色鮮やかな式の花がデザインされた香袋などを販売する和雑貨屋「香舗いせき」として営業を行っています。
その東側にある「梅辻家住宅(うめつじけじゅうたく)」は1871年(明治4年)の「国家神道令」によって世襲制が廃止されるまで神主や禰宜(ねぎ)、祝(はふり)・権禰宜・権祝などの9つの社務職を独占していたという松下・森・鳥居大路・林・梅辻・富野・岡本の「賀茂七家(かもしちけ)」のうち唯一現存している屋敷で、建物は伝統的な上賀茂の社家の建物である居室部「主屋」と、確証はないものの御所の学問所を移築し加えたものであると伝えられている座敷部「書院」からなり、上賀茂の社家住宅の代表例として貴重な建物の一つで、通常非公開ですが、時期を選んで特別公開されることもあるようです。
そして藤木社のあるT字路から南へと続く南大路辻子沿いにある「岩佐家住宅」も岩佐家は代々上賀茂神社に仕えていた社家の一つで、江戸中期までに建築されたと推定される主屋のほか土蔵、表門、土塀に加え主屋の南に庭園が残されており、建物には鳥居形の玄関や供待ち、束と貫で飾る妻面の外観などに社家住宅としての特色が見られるほか、庭園も明神川の支流から水を引き込んで造られ注連縄飾りや三方飾りに使われる譲葉(ユズリハ)の植栽が社家庭園として特徴的であり、1986年(昭和61年)6月2日に「京都市指定有形文化財」および「京都市指定名勝」に指定されていますが、こちらは通常非公開となっています。
その他の社家に関連した見どころとしては、上賀茂神社の社家の生まれで江戸後期の京都の文人の代表的存在で京都歌壇を二分するほどの勢力を持ち、「雲錦亭」と呼ばれる文化サロンを主宰したの国学者で歌人の賀茂季鷹の旧居「山本家住宅」が界わい景観建造物に指定されているほか、大正から昭和期にかけて芸術家として活躍し美食家としても知られた北大路魯山人(きたおおじろさんじん 1883-1959)も実は上賀茂の社家・北大路家の出身であり、上賀茂神社の境外摂社で天然記念物のカキツバタの群生で知られる「大田神社」の社前には生誕の地であることを示す「北大路魯山人生誕地石碑」が建てられています。
最後に明神川の流れは上賀茂本通の社家町を東へと流れていく間、幾つも分岐し、かつては生活用水や農業用水、現在も「上賀茂用水路」という農業用水になって「すぐき菜」の産地としても知られる周囲の田畑を潤しています。
また主流の方は住宅地の間を更に東へ流れ、まもなく暗渠に入り、多くの分流となり、あるいは再合流したりしながら、最後は琵琶湖疏水分線に合流して終わりを迎えます。