京都市北区上賀茂北大路町、世界遺産・上賀茂神社の一の鳥居前から上賀茂本通の南側に並行して東へと流れる明神川沿いに続く「上賀茂社家町」にある旧社家の邸宅。
この点、賀茂神社の境内を流れ出た「ならの小川」は、直後に流れは2つに分岐して、一つは南西へと流れて賀茂川へ、もう一つは上賀茂神社の前を東西に通る上賀茂本通(藤ノ木通)の南側を並行する形で東へと流れていき、以降は「明神川」の名前となります。
そしてこの上賀茂神社前から明神川に沿って東へと続く上賀茂本通(藤ノ木通)の道沿いには、室町時代から代々上賀茂神社に神官として仕えた社家(しゃけ)と呼ばれる人たちの屋敷が立ち並び、「社家町(しゃけまち)」と呼ばれる町並が形成されていることで知られています。
神職は仕える神社のすぐ側に家を構えることが多いため、特に大きな神社ともなれば数多くの神職たちの屋敷が建ち並び大規模な社家町が形成されることも珍しくはありませんが、江戸時代の上賀茂神社の社領は2500石余とかなりの広大な規模であったため、その規模は大きく275軒あったといわれています。
明治以降は世襲制が廃止されたために社家の数は徐々に減少していき、明治の終わり頃にはおよそ150となり、現在は20数軒が残るのみとなっていますが、それでも全国的には社家町がまとまって残っているのは島根県の出雲大社と奈良県の春日大社ぐらいで、上賀茂の社家町のようにまとまった規模で残されているのは全国的にみても珍しいといいます。
それに加えて上賀茂神社の社家町においては建物が上賀茂神社の本殿より高くなってはならないとされていたことから、平屋ないしは二階建ての建物までに抑えられてきたことで、整然とした美しい街並みが形成され、
更に「豕扠首(いのこさす)」と呼ばれる独特の妻飾りを持つ主屋を、上部に鳥居の貫(ぬき)に似た横木を付け鳥居に見立てた門と土塀とで囲い込み、前庭や生垣の樹木と門前を流れる明神川、そして川に連続して架かる門前の小さな橋などが独特の趣ある景観を構築しており、歴史的かつ文化的に保護する価値の高いものとして、1988年(昭和63年)に国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されています。
また伝統的建造物群保存地区の周辺地域22hが1997年(平成9年)に京都市より「界わい景観整備地区」の指定を受け、景観保全の取り組みが進められています。
このうち「上賀茂伝統的建造物群保存地区」の指定範囲は2.7haで、上賀茂神社一の鳥居の東側の三叉路から、上賀茂本通(藤ノ木通)を東へ進んだ約300m、上賀茂神社の境外末社で、明神川の守護神として信仰されてきたという樹齢500年の楠が印象的な藤木社(ふじきのやしろ)までの間までの建物が対象となっています。
対象となっている屋敷は土産物屋や料亭などの店舗や病院、そして普通の民家となっているものもあり、その多くは観光目的での見学はできませんが、一般開放を行っている社家として「西村家別邸」がよく知られています。
その一方で「上賀茂伝統的建造物群保存地区」の指定範囲の外にも社家の遺構とされる建物は残されていて、そのうち「井關家住宅(井関家住宅)」「梅辻家住宅」「岩佐家住宅」の3つが京都市指定登録文化財に登録されています。
「梅辻家住宅(うめつじけじゅうたく)」は、代々上賀茂神社に仕えていた社家・梅辻家の邸宅で、伝統的建造物群保存地区の東端となっている藤木社のあるT字路より上賀茂本通(藤ノ木通)を更に東へと進んだ先にあります。
この点、賀茂社においては社務職は鎌倉時代までは賀茂県主の後裔という「賀茂十六流」の家柄からのみ選ばれていたといいますが、鎌倉期以降は賀茂一族に代わり後鳥羽天皇の血筋を組む一族である松下・森・鳥居大路・林・梅辻・富野・岡本のいわゆる「賀茂七家(かもしちけ)」が神主、禰宜(ねぎ)、祝(はふり)・権禰宜・権祝などの9つの社務職を社家として代々独占、その状態は明治期を迎えた1871年(明治4年)に「国家神道令」によって世襲制が廃止されるまで続いたといいます。
そして梅辻家の屋敷はこの「賀茂七家」の中で唯一現存しているものであるといい、現在の建物は江戸後期のもので、建築年代は不明ではあるものの、祈祷札に記された1838年(天保9年)頃にはほぼ現在の形になっていたものと推測されています。
梅辻家住宅の建物はこの伝統的な上賀茂の社家の建物である居室部の「主屋」と、これとは別に確証はないものの約250年前の江戸時代に御所の学問所を移築し手を加えたものであると伝えられている座敷部の「書院」の2つの建物で主に構成されています。
このうち居室部にあたる「主屋」は、木造平屋建、切妻造一部入母屋造の建物で、上賀茂本通(藤ノ木通)沿いに続く土塀とのコントラストが実に趣のある切妻造・桟瓦葺の長屋門をくぐると、主庭を挟んだ前方正面に主屋に付属した入母屋造の式台が出迎えます。
そして妻面は小屋裏まで立ち上げた柱と水平に通る貫とで飾り、また西面には鳥居型の内玄関が開き、供待ちの腰掛けが付くという上賀茂の社家住宅の特徴である式台と鳥居型の内玄関、そして供待という体裁が整えられています。
一方、座敷部にあたる「書院」は座敷と次の間からなり、座敷は北面に押板風の床の間が付き、東面には付書院を備えて花頭窓を開き、天井は床指しの棹縁天井を張り、柱も天井も黒く塗られたいわゆる黒書院で、随所に菊の御紋が彫られた金具が使用されており、御所の学問所と伝わるのも頷ける古式で格式を備えた意匠を有しています。
そして梅辻家住宅は建築年代やその後の改変について不明な点が多いものの、「賀茂七家」の中では現存唯一の遺構であることや、上賀茂の社家住宅の特色を色濃く残しており、上賀茂の社家住宅の代表例として貴重であることから、1986年(昭和61年)6月2日に「京都市指定有形文化財」に指定されています。
内部は通常非公開ですが、年に1~2回程度一般公開されることがあり、その場合の日時は京都新聞などに掲載されるといいます。公開の際には「源氏物語図」扇面貼付屏風や「花鳥図」屏風なども特別展示されます。