京都市北区紫野大徳寺町、堀川北大路より約400m西に大伽藍を構える臨済宗大徳寺派の大本山・大徳寺の20余りある塔頭寺院の一つ。勅使門・三門・仏殿・法堂・庫裏・方丈と北へ続く大徳寺の中心伽藍の庫裏のすぐ西側、織田信長の菩提寺・総見院の東隣に位置する、茶道の三千家の菩提寺としても知られる寺院。
戦国時代の1566年(永禄9年)、室町幕府第12代将軍・足利義晴に仕えた三好長慶の養子・三好義継(みよしよしつぐ 1549-73)が、養父であり戦国期に畿内の支配者として君臨した戦国大名・三好長慶(みよしながよし 1522-64)の菩提を弔うため、大徳寺107世・笑嶺宗?(しょうれいそうきん 1505?-84)を開山として創建したのがはじまりで、「聚光院」の院号は三好長慶の法名「聚光院殿前匠作眠室進近大禅定門」から採られたものだといいます。
開山である笑嶺和尚に参禅した茶人・千利休(せんのりきゅう 1522-91)が檀家となって多くの浄財を寄せたことから、以来当寺は千利休と利休の流れを汲む表千家・裏千家・武者小路千家の茶道三千家の菩提寺となっており、境内には千利休の供養塔を中心に三千家歴代の墓があり、わび茶の聖地ともいわれ毎月28日には茶の供養が行われるといいます。
入母屋造・檜皮葺の「方丈(本堂)」は創建時に建立されたもので、室町時代の最末期を飾る客殿遺構として貴重であり、国の重要文化財に指定。
その方丈の内部には狩野松栄(かのうしょうえい 1519-92)・狩野永徳(かのうえいとく 1543-90)父子による方丈障壁画、すなわち室中の襖絵「花鳥図」、上二之間の「琴棋書画図(きんきしょがず)」は狩野永徳の筆によるもので、下二之間の「瀟湘八景図(しょうしょうはっけいず)」、上一之間の「竹虎遊猿図」は永徳の父・松栄の筆によるもので、壮大な画面構成や雄勁な筆致で桃山障壁画を代表する傑作として国宝に指定。
現在は障壁画のオリジナルは保存のために京都国立博物館に寄託されていて、方丈では障壁画の複製を見ることができます。
また方丈南の蓬?枯山水庭園「百積の庭」は永徳の下絵を元に千利休が作庭したと伝わり、桃山時代の遺風をよくとどめているとして国の名勝、方丈の北側に位置する書院の茶室「閑隠席(かんいんせき)」は利休150回忌の1741年(寛保元年)に表千家7代・如心斎が造営・寄進したという利休好みの三畳台目の茶席で、切腹した場所とも伝えられるなど利休ゆかりの伝説も多く国の重文、その他にも「桝床席(ますとこぜき)(重文)」、三好長慶ゆかりのものとしては、笑嶺の賛がある画像「絹本著色三好長慶像」(重文)や墓石などの文化財を所蔵しています。
通常非公開の寺院ですが、千利休の月命日である毎月28日に2つの茶室で茶会が開かれているほか、特別公開の際などに拝観することができ、2016年(平成28年)には創建450年を記念して春から1年にわたって特別公開されたこともありました。