武者小路千家 官休庵のみどころ (Point in Check)
初代 千利休
千利休(せんのりきゅう 1522-1591)は戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した商人・茶人。
「茶聖」とも称され、織田信長や豊臣秀吉といった天下人に仕えて「侘茶(わび茶)」を大成させたことで有名であり、現在まで続く茶の流派「三千家(さんせんけ)」の始祖としても知られています。
1522年(大永2年)に大阪・堺の魚問屋「ととや」という商家に生まれます。
父は堺でも高名な豪商であったといい、16歳の時に店の跡取りとして教養や品格を身に付ける目的で茶の世界に入ったのが茶人となるきっかけでした。
その後、18歳の時に当時の茶の湯の第一人者だった茶人・武野紹鴎(たけのじょうおう 1502-55)に弟子入りし、1544年(天文13)、23歳の時に最初の茶会を開き、師匠の影響もあり「わび茶」を大成させることとなります。
「わび茶」は室町時代に村田珠光(むらたじゅこう 1423-1502)によって誕生した茶の湯の様式で、秀吉の「黄金の茶室」に代表されるような高価な茶碗、茶道具や派手な演出などを排し、草庵風の茶室を完成させ4畳半の部屋にて茶を振舞うなど、極限まで無駄を削り、簡素静寂な境地、すなわち「わび」の精神を重んじたものです。
1568年(永禄11年)、大名支配の外にあって活気に沸いていた自由都市・堺に目を付けた織田信長(おだのぶなが 1534-82)は、堺とのパイプをより堅固にすべく堺の政財界の中心にあって茶人でもあった今井宗久(いまいそうきゅう)、津田宗及(つだそうぎゅう)、千利休の3人を茶の湯の師匠である茶頭(さどう)として重用します。
すると新しいもの好きで「茶の湯」を好み、また茶器などの道具にもこだわるなどした織田信長に倣って茶の湯に励む信長の家臣たちからも一目置かれるようになります。
その後「本能寺の変」にて信長が亡くなると、後を継いだ秀吉は信長以上に熱心に茶の湯に励み利休を召し抱えますが、その魅力に感化された家臣たちはこぞって利休に弟子入りし、細川三斎や織田有楽斎、高山右近や古田織部などの「利休十哲」と呼ばれる優れた高弟が生まれました。
そして1585年(天正13年)には秀吉の関白就任の返礼として催され天皇に自ら茶を点てた禁中茶会にて「利休」の号を天皇より賜り、それまでの千宗易(そうえき)から名を千利休と改め、更に1587年(天正15年)に秀吉が北野天満宮にて盛大に開催した「北野大茶湯」を司るなどし、天下一の茶人として全国に知れ渡りますが、しかし当時の最大権力者である豊臣秀吉に疎まれ、1591年(天正19年)、ついには切腹を命じられてしまいます。
二代 少庵
利休が秀吉から切腹を命ぜられて後、利休の先妻の子・千道庵(せんのどうあん 1546-1607)と利休の後妻の連れ子で千利休の養子で娘婿でもあった千小庵(せんのしょうあん 1546~1614)は地方に逃れます。
そして数年経過の後、徳川家康や前田利家らの取りなしもあって秀吉に許されて京に戻ると、秀吉から利休の遺物を下賜され、千家の後を継ぐとともに利休にゆかりのある茶室「不審庵(ふしんあん)」を再建。また大徳寺の喝食(かつしき)として仏門に入っていた息子の千宗旦(そうたん)を還俗させ、わび茶の普及に努めます。
ちなみに前後して道庵も帰京して利休の出身地である堺の千家を継ぎますが、こちらは道庵没後に絶えてしまいます。
秀吉の没後に家康の天下となると、小庵は家康に仕えて400石を受けますが、間もなく仕官を辞して西芳寺に隠棲し、小庵と利休の娘・お亀との間に生まれ、利休の孫にあたる千宗旦が千家を継ぐこととなります。
三代 宗旦(中興の祖)
千利休の孫にあたる元伯宗旦(げんぱくそうたん 1578-1658)は利休が大成したわび茶の厳しさを深く追求し、晩年には四畳半より更に狭い一畳台目(約2畳)の茶室「今日庵(こんにちあん)」などを建てています。
宗旦は祖父・千利休の悲劇的な最後を慮り、生涯にわたって大名家からの仕官の要請を拒み続け、亡くなるまで清貧を貫きましたが、、三人の息子たちにはそれぞれ紀州徳川家(表千家・宗左)、加賀前田家(裏千家・宗室)、讃州高松松平家(武者小路千家・宗守)に茶頭として仕官させ、精力的に千家の復興および侘び茶の普及に努めています。
四代 宗守・宗左・宗室 (三千家のはじまり)
その3代・千宗旦には四人の男子がいましたが、このうち長男・閑翁宗拙(かんおうそうせつ)は父と折り合いが悪くついには勘当されて父より早く亡くなったといい、また次男の一翁宗守(いちおうそうしゅ)は塗師へ養子に出されていたため、1646年(正保3年)、宗旦が隠居を決めた時、千家の家督および「不審庵」は三男の江岑宗左(こうしんそうさ 1613-72)が継ぐことととなります。
これが現在の「表千家」のはじまりであり、以降「宗左」の名は代々の家元に受け継がれることになります。
一方隠居した宗旦は屋敷の裏地に隠居所として新たに「今日庵」という庵を作り、四男の仙叟宗室(せんそうそうしつ)を連れて移り住みます。
そしてその「今日庵」も後に一緒に暮らしていた四男・宗室に譲られることとなり、今日庵が三男・宗左の「不審庵」の裏手にあることから「裏千家」と呼ばれるようになりました。
また次男の一翁宗守(いちおうそうしゅ)も、漆屋から茶人として生きる道を選び、晩年千の姓に戻り、不審庵や今日庵より少し南に下りたところにある武者小路という道沿いに「官休庵(かんきゅうあん)」を造営し、建物の建てられた武者小路の通りの名前をとって「武者小路千家」を興すことになります。
こうして千利休の「ひ孫」にあたる4代目の世代のときに、三代・千宗旦の三人の息子たちがそれぞれ千家を名乗り「三千家」が誕生します。
もっとも三家の関係は悪いものではなかったようで、互いに養子を出し、共同で制度整備にあたるなど明治期に入るまでは同流派として認識され、実際に京都においては下京にあった「藪内家」を下流と呼ぶのに対し上京の「三千家」は一括りにして「上流」と呼ばれていたといいます。
その後時代が進むにつれ流派の次男や三男が独立するなどして多くの流派が誕生することとなったため、表千家第7代・如心斎(じょしんさい)が千家を名乗るのは表千家・裏千家・武者小路千家の嫡子とし、二男三男にはこれを名乗らせないと定めることを提唱し、他の二家もこれを了承します。
そしてこれによって茶道における千家は「表千家」「裏千家」「武者小路千家」の千三家に限定されることとなり、現在に至っています。
三千家の行事
行事としては大徳寺の塔頭寺院である聚光院(じゅこういん)にて毎月28日の千利休の月命日に三千家の交代で法要が営まれ、家元によって釜が掛けられます。
この点、聚光院は笑嶺和尚に参禅した千利休が檀家となって多くの寄進を行った利休ゆかりの寺院で、千利休の墓があるほか、三千家の菩提寺にもなっており、三千家の歴代の墓があることでも知られています。
または毎年3月27・28日には千利休の命日(旧暦2月28日)を偲んで大徳寺にて「利休忌」の法要が執り行われますが、これに合わせて武者小路千家では3月28日に追善茶会が催されます。
その他にも全国の神社仏閣などで「献茶式」の儀式が行われる際には、家元の奉仕により古式ゆかしい作法にのっとり神仏や御霊に献茶が行われます。
武者小路千家について
京都市上京区武者小路通り小川東入にある、茶道流派「三千家」の一つ「武者小路千家(むしゃこうじせんけ)」の邸内にある流派を代表する茶室の名前、およびその茶道流派である財団法人官休庵の総称。
千利休の孫にあたる第3代・千宗旦(せんのそうたん 1578-1658)の次男・一翁宗守(いちおうそうしゅ 1605-76)が高松藩の茶頭を辞して隠居した1667年(寛文7年)に造られたと伝えられています。
宗守は最初は兄である長男・宗拙と同様に家を出て、武者小路あたりの吉文字屋与三右衛門(きちもんじやよざえもん)という塗師の家へ養子として入り「吉岡甚右衛門(よしおかじんえもん)」と称し優れた技術者だったといいます。
しかし千家兄弟の勧めもあって父・宗旦の最晩年の明暦年間(1655-1658)にはその技を娘・宗寿の夫で現在「千家十職」の一つとされている中村宗哲の初代となる八兵衛に譲り、千家の茶の世界に戻って武者小路通小川東入に居を構えて「官休庵」の祖となり、その後は「似休斎(じきゅうさい)」の号の示すように利休を慕い、利休を追求したといいます。
この点「表千家」「裏千家」に対し、宗守が開いた茶道流派は武者小路通にあったことから「武者小路千家」と呼ばれるようになります。
この「武者小路通」は京都御所が室町初期に現在の地に移されて以来、京都御所警護にあたる侍達が住したことからその名で呼ばれるようになった通りです。
1663年(寛文3年)、讃岐高松藩の初代藩主・松平頼重の招聘で高松藩の初代茶道頭として仕え、3年近く茶道の指南役を担いますが、1667年(寛文7年)に老齢を理由にその職を辞して隠居し、建てたのが「官休庵」だったといいます。
「官休庵」の名は、宗守が父・宗旦と相談して茶室を造った際に父に名づけてもらった名と伝えられていて、茶室「官休庵」には宗旦筆の「官休」の扁額が掲げられています。
その意味は判然としないものの、1774年(安永3年)、一翁宗守の百年忌の際に大徳寺第390世・眞巌宗乗(しんがんそうじょう)により書かれた頌には、「古人云官因老病休 翁者蓋因茶休也歟(茶に専念するために官(茶道頭)を辞めたのであろう)」、すなわち「仕官を休む」という意味を含んでいるといい、松平家の茶道頭を辞した後に開いたことに由来しているといいます
しかしその縁により武者小路千家では明治維新によって廃藩置県が実施されるまで歴代家元が讃岐高松藩の茶道指南を務めており、また「宗守」の名は1650年(慶安3年)にの参禅の師である大徳寺第185世で芳春院の玉舟宗●(ぎょくしゅうそうばん)から授かったものですが、一翁以後の武者小路千家の歴代当主はこの名を襲名する慣わしとなり、またその時に同時に示された「宗屋」の名は代々の後嗣、「宗安」は隠居後の号となっています。
「官休庵」は茶道流派である財団法人官休庵の総称でもありますが、これは千利休の道統を継ぐ武者小路千家に伝わる茶道を保存育成し、その精神を一般に普及し、もって日本文化の向上に貢献する事を目的として1965年(昭和40年)に設立されたもので、武者小路千家茶道の伝授及び普及、官休庵その他の建造物などの保存及び公開利用、茶会・講習会などの開催・公開、茶道文化に関する図書の出版・頒布などの事業を行っています。
一方茶室としての「官休庵」は1667年(寛文7年)に一翁宗守が造っ後「天明の大火」や幕末の兵火など江戸期に3回焼失し、その度に再建されており、現在の建物は1926年(大正15年)に再建されたものですが、一翁が創立したときの形式がそのまま踏襲されていると伝えられています。
武者小路千家の敷地内には官休庵の他にも「半宝庵」「環翠園」といった茶室を有する「主屋」や、利休居土を祀る「祖堂」、主屋の東に建つ「弘道庵」などの建物が飛石の露地でつながれ、中門「編笠門」や石灯籠などを有する露地庭園は雅趣に富んでおり、国の重要文化財、そして京都市の「歴史的意匠建造物」と「景観重要建造物歴史的風致形成建造物」の指定を受けています。