京都府八幡市八幡平谷、石清水八幡宮の鎮座する男山の東麓、七曲がりの参道のそばにある臨済宗妙心寺派の寺院。
本尊は釈迦如来で、松花堂昭乗の墓所および菩提寺とされている松花堂昭乗ゆかりの寺院として知られています。
わが国においては明治維新までは神と仏を併せて祀る「神仏習合」が一般的であり、石清水八幡宮の境内には最盛期には約60近い寺坊があって社僧が住していたといい、松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう 1582-1639)も石清水八幡宮の学僧の一人でした。
昭乗は幼名を辰之助といい、摂津国・堺に生まれた後、兄が興福寺一乗院門跡尊勢に仕えたのに従って奈良に移住。
その後1600年(慶長5年)、17歳の時に石清水八幡宮の男山四十八坊の一つであった「滝本坊(たきのもとぼう)」の阿闍梨・実乗(じつじょう)の下で剃髪して名を「昭乗」と改め、社僧として実乗に仕えて修行するとともに真言密教を修め、後に僧として最高の位である阿闍梨(あじゃり)の位にも就いています。
1627年(寛永4年)に師・実乗が没するとその跡を継いで滝本坊の住職となりますが、1637年(寛永14年)に火災によって坊が焼失すると、住職を退いて兄・元知の子で弟子の乗淳(じょうじゅん)に滝本坊を譲り、自らは男山中腹の「泉坊」の一隅に「松花堂」という小方丈を建ててそこに移り住み、自らも「松花堂昭乗」と名乗って晩年を過ごすこととなり、これが「松花堂」のはじまりとされています。
また昭乗は書画や和歌、茶の湯などにも精通した当代きっての文化人としても知られていた人物で、江戸初期の寛永年間(1624-44)に公家や武士のほか、僧侶や町衆などの間で花開いた芸術文化の形成にも大きな役割を果たしました。
まず書道については、はじめ御家流の書を、後に空海や定家の書を学び、松花堂流(滝本流)といれる独特の書流を確立し、昭乗の生み出した書流は江戸時代200年の間、書の手本として命脈を保ち続けました。
そして近衛信尹(このえのぶただ)・本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)とともに「寛永の三筆」に数えられる腕前でした。
次に絵画においては、狩野山楽および山雪に大和絵を学び、人物画、花鳥・山水画において当代随一と高い評価を得ています。
更に茶の湯では寛永の文化人たちが数多く集まった茶会において、各界の文化人たちと交友を持ち、近衛信尋や尾張藩祖の徳川義直、狩野山雪、石川丈山(じょうざん)や小堀遠州、林羅山、木下長嘯子(ちょうしょうし)、江月宗玩(こうげつそうがん)、沢庵宗彭(たくあんそうほう)、淀屋个庵など、そうそうたる文人墨客たちが名を連ねており、さながら文化サロンの様相を呈していたといいます。
1639年(寛永16年)に昭乗が病気のため55歳でその生涯を閉じると、当寺のある男山山麓の現在地にあったという滝本坊の里坊の位牌堂の傍に歴代の瀧本坊住職たちとともに葬られますが、明治維新後の「神仏分離令」に伴う廃仏毀釈の影響で男山中腹の滝本坊は廃寺となり、男山山麓の滝本里坊にあった昭乗の墓所も墓塔が倒されるなど荒廃していたといいます。
その後、明治末期に松花堂昭乗の墓を訪ねた三井物産創業者で三井財閥を支えた実業家・益田孝(ますだたかし 1848-1938)らがその墓の荒れ果てた状態を憂い、墓所の土地を買収・改築し整備したのをきっかけに、大正時代に入った1913年(大正2年)には明治時代を代表する官僚・政治家で、首相や大蔵大臣などを歴任し、日本銀行を設立したことでも知られる松方正義(まつかたまさよし 1835-1924)の揮毫によって松花堂遺跡碑が建立されます。
そしてこの墓所を寺院の形に整えたのが大徳寺486世、5代管長・宗般玄芳(そうはんげんぽう 1848-1922)とその弟子の円福寺住職・神月徹宗(こうげつてつしゅう 1883-1941)で、大阪の篤志家・中尾かつ子の尽力もあって方丈や庫裏のほか、青松居(せいしょうきょ)および閑雲軒(かんうんけん)の茶室を建造。
また寺号は神月と親交のあった熊本藩・細川家よりその菩提寺であったものの、明治維新後に細川家が神道に改宗したため廃寺となった熊本の「泰勝寺」から譲り受けていますが、当時は寺院の創建は認められなかったことから廃絶していた滝本坊の復興・改称という形が取られたといいます。
その後1922年(大正11年)5月18日には昭乗の遺風を顕彰する「松花堂会」が結成され、泰勝寺において忌日である18日を期して茶会が催されるようになり当時の財界において茶の湯を愛国する実業家たちが数多く集まったといい、その流れは昭乗ゆかりの松花堂庭園で開かれる「松花堂忌茶会」にも受け継がれているといいます。
現在は拝観には事前に予約が必要ですが、正月3が日や11月11日の「昭乗忌」には予約不要で公開されていて、表門をくぐり、石畳の参道を進んだ先に「方丈」、方丈の前には枯山水庭園の「南天招福の庭」、そして庭園を降りて露地を進んだ先に茶席「閑雲軒」「松花堂昭乗の墓」、そして一番奥に収蔵庫「貴芳殿」があります。
茶席「閑雲軒」は昭乗が瀧本坊に造ったものを再現したもので「日本百席」の一つに数えられていて、また「松花堂昭乗の墓」には五輪卒塔婆の形をした昭乗の墓を中心に、向かって右に師・実乗、左に弟子の萩之坊乗圓の墓が建てられています。
そして収蔵庫「貴芳殿」には幸運月光菩薩像や松花堂昭乗の書や愛用の茶道具、日本最初の「松花堂弁当」などの寺宝が展示されています。