京都市伏見区西桝屋町、京阪「墨染」駅から南西に5分ほど歩いた師団街道の裏手にある曹洞宗の寺院。
山号は清涼山で、本尊は「伏見の大仏」で知られる丈六の大仏。
「欣浄寺略記」によれば、平安初期にはこの地に小野小町とのエピソードで有名な深草少将義宣(よしのぶ)の邸宅があったとされ、同地は桓武天皇から邸地として賜ったもので、往時には8町四方、墨染駅から深草駅までが入る広さがあったといいます。
この点、少将は813年(弘仁4年)3月16日に亡くなり、屋敷のあったこの地に埋葬されています。
深草少将はここから山科の小野小町の元へ「百夜通い」を行ったものの、百日目を目前にして雪の中で亡くなってしまい、これは悲恋の物語でよく知られています。
そして欣浄寺の山号「清涼山」は少将の院号である「清涼院殿蓮広浄輝大居士」に由来しているものです。
その後、9世紀半ば頃に、仁明天皇の寵臣であった五位少将蔵人頭・良峰宗貞(僧正遍昭)が、帝の崩御を受け、その菩提を弔うために念仏堂を建立。
これが寺のはじまりとされていて、帝の念持仏の阿弥陀如来像と御尊牌を奉安し念仏浄業にふけったといわれています。
また鎌倉時代には日本における曹洞宗の開祖・道元(どうげん)が一時ここで閑居していたと伝えられています。
中国で学び曹洞宗を開いた道元は、日本に帰ってから永平寺を開くまで、いくつかの寺を巡っており、同寺はそのうち一つで、1230年(寛喜2年)から1233年(天福元年)まで、この地で教化に努め、当寺を創建したともいわれています(当時の名称は「安養院」)。
このことから曹洞宗においては「道元禅師深草閑居の旧跡」とされ、本堂の入口には「永平寺御直末」とあるなど、重要視されている場所の一つとなっています。
創建当初は真言宗でしたが、1467年の「応仁の乱」の後に曹洞宗となり、更に天正・文禄年間(1573-92)の頃に僧・告厭(こくえん)が中興した際に浄土宗に改められ、江戸末期の文化年間(1804-18)に再び禅宗(曹洞宗)に転じて現在に至っています。
そして何といっても本堂に本尊として安置されている、江戸中期の1791年~93年(寛政3~5年)に寄せ木造で建造され、俗に「伏見の大仏」と呼ばれる丈六(約4.85m)の毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)があることで有名で、高さ5.3m(一丈六尺)は、木造の仏像としては日本一を争う大きさです。
現在の本堂は1974年(昭和49年)の再建で、建て替えの前年に起きた方広寺の大仏殿焼失の火災の教訓から、万が一に備えて珍しい近代的な鉄筋コンクリート造で建造。中は広々としており、一風変わった配置で仏様は一段下がった場所に安置されています。
本堂にはこの他にも仁明天皇の念持仏で、大仏が作られる前の本尊である白檀の香木で作られた阿弥陀如来像(清涼寺式釈迦如来像)や、その隣には道元禅師自作の石像、更に天明年間の「欣浄寺絵図」なども安置されています。
また境内の本堂前には池を中心に深い木々に囲まれた庭が広がり、小野小町と深草少将ゆかりの史跡がいくつか見られるほか、本堂内には小野小町の恋文の灰を固めて作られたといわれる深草少将張文像も安置されています。