京阪墨染駅とは?(基本データ)
- 名前
- 京阪墨染駅(けいはんすみぞめえき)
- エリア
- 伏見・桃山
- ジャンル
- 建立・設立
- 1910年(明治43年)4月15日
- アクセス
- 駐車場
- -
- 拝観料
- なし
- お休み
- 特になし
- 拝観時間
- 時刻表に準ずる
- 住所
- 〒612-0051
京都府京都市伏見区墨染町691 - 電話
- 06-6945-4560(京阪電車お客さまセンター)
- FAX
- -
- 公式サイト
- 墨染駅 京阪電車
墨染駅 京阪おでかけナビ
京阪本線の駅で相対式2面2線ホームの地上駅。駅名にちなみホームの柱は薄墨色に塗られているのが印象的。 薄墨桜で有名な墨染寺や伏見の大仏が安置される欣浄寺への最寄り駅であるほか、JR藤森駅も徒歩圏内で勝運の神様として名高い藤森神社や京都教育大学へのアクセスにも便利
京都市伏見区墨染町、京都市南部、清水五条から伏見へと続く旧伏見街道(本町通・直違橋通)を南へと下がり、伏見稲荷大社や藤森神社を過ぎた先にある墨染交差点の西側に位置する京阪本線の駅。
駅名の由来は一帯の地名「墨染(すみぞめ)」からですが、更にその地名の由来となっているのが駅の南西にある「墨染寺(ぼくせんじ)」という寺院です。
平安前期、歌人・上野岑雄(かんつけのみねお)が、初の関白となった太政大臣・藤原基経が亡くなったのを悼んで「深草の 野辺の桜し 心あらば 今年ばかりは 墨染に咲け(桜の花に心があるのなら、せめて今年ばかりは墨染色に咲いてほしい)」(「古今集」巻16)という和歌を詠むと、その思いが通じたのか桜が見事に墨染色に咲き、これにより一帯が「墨染」と呼ばれるようになったといい、この伝説は「墨染桜(すみぞめざくら)」として謡曲や歌舞伎の演目にもなっているといいます。
そしてこの和歌が詠まれた付近には、元々は874年(貞観16年)に創建された「貞観寺」という寺があり、その後荒廃していましたが、16世紀末頃に上記の「墨染桜」の逸話を知った豊臣秀吉が、姉・瑞竜尼が帰依していた日秀に土地を寄進して再興させ、現在も「墨染寺」という名前の日蓮宗寺院として存続しており、隠れた桜の名所として知られています。
1910年(明治43年)4月15日の京阪電気鉄道(京阪)の京阪本線の開業に合わせて設置されたのがはじまり。
そして1943年(昭和18年)10月に戦時中の企業統合政策によって、京阪電気鉄道が阪神急行電鉄(現在の阪急)と合併するといったんは阪急の駅となりましたが、戦後の1949年(昭和24年)12月に京阪神急行電鉄から京阪電気鉄道が再び分離独立すると、再び京阪の駅となり現在に至っています。
相対式2面2線ホームを持つ地上駅で、駅南側を走る墨染通沿いに上下線で独立した形で駅入口と改札口が設置されていて、かつては付近に構内踏切が存在していましたが1990年代に撤去され、現在は改札内で互いのホームを行き来することは出来なくなっています。
駅舎は1995年(平成7年)に新しく作られたもので、駅名の「墨染」にちなんで1980年代半ばからホームの柱がグレー(薄墨色)に塗られているのが特徴的です。
駅周辺についてはまず本町通・直違橋通などと名前を変えつつ京阪本線と並行する形で清水五条やや東から南へと下ってきた「旧伏見街道」が、駅のすぐ東側を通っており、駅の南側を東西に走る墨染通と交差する「墨染」交差点まで下ってきた伏見街道はこの交差点で西に折れた後は墨染通を西へと進んだ後、墨染寺の手前で南に折れて撞木町遊郭跡の石碑の交差点に到着。
その後は再び南へと転じ、国道24号と交差した後、京町通へとつながり、京阪丹波橋駅の西側、京阪伏見桃山駅の東側で伏見の中心街に到達します。
このため一帯は古くは京都と伏見を往来する商人や、伏見から山科を経て東海道を往還する旅人などが行き交い、江戸中期には芝居小屋や遊郭も作られて大いに栄えたといいますが、鉄道網が整備された明治以後は衰退し、現在はのどかな住宅街となっています。
これら駅周辺のうち、まず駅の東側のJR藤森駅との間には深草地区の鎮守であり、勝運・競馬の神様として知られる藤森神社が鎮座するほか、京都教育大学のキャンパスなどがあり、JR藤森駅とともに多くの参拝客や学生が利用しています。
一方駅の西側には京阪本線や伏見街道と並行する形で南へと流れてきた琵琶湖疏水が駅の西側を南北に流れていて、墨染通に架かる墨染橋からは琵琶湖疎水ののどかな情景が楽しめるほか、駅の南側には疎水の終点となり、「伏見インクライン」の跡でもある「墨染ダム」があり、またこれを利用した関西電力の水力発電所「墨染発電所」が運営されています。
そして疏水に架かる墨染橋を渡った先には前述の「墨染寺」のほか、伏見大仏として知られる「欣浄寺」、更に墨染通を西へと進んだ先には幕末に活躍した新選組の局長・近藤勇が「鳥羽伏見の戦い」に参加することができなかった原因となった襲撃事件の起きた遭難の地の石碑が門前に立つ老舗料亭「清和荘」などがあります。
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