京都市東山区本町、京阪電車の東福寺駅のやや北、伏見街道の京都市側にあたる本町通を北へ5分ほど歩いた伏見街道沿いに位置する藤森神社の境外末社。
大丸百貨店を創始した下村家が厚く信仰してきたことから「大丸稲荷」とも呼ばれている神社です。
祭神は大己貴命(おおむなちのみこと)のほか、江戸時代まで祀られていた大黒天(大国主命)や弁財天、毘沙門天の3神も共に祀られています。
創建年代は不詳なもののその歴史は古く、平安末期の源平の争乱を描いた「源平盛衰記」に瀧尾神社の旧名「武鶏ノ社」の名が記されており、平安時代の頃からすでに存在していたと考えられています。
当初は洛東の聾谷(東大路五条付近)にあり「武鵜社」と称していましたが、「坊目誌」によると室町時代の「応仁・文明の乱」にて焼失の後、吉坂の地に遷座し「多景社」と称したといいます。
そして1586年(天正14年)10月の豊臣秀吉の方広寺大仏殿の建立に伴って現在地に遷座。
更に江戸時代に入り、皇室にゆかりの深い泉涌寺の僧が守る「多郷社」と称し、藤森神社の御旅所となっていました。
その後、江戸中期の宝永年間(1704-11)に幕府の命令により社殿の改築が行われ、現在の「瀧尾神社」に改められたといいます。
また19歳で大丸百貨店の前身である古着商「大文字屋」を継ぐと、質屋や貸衣装などを手伝いながら大阪の心斎橋に呉服店を開き、行商から大呉服商となり、後の大丸百貨店の礎を築いた京の豪商・下村彦右衛門(しもむらひこえもん)は、自宅のあった伏見区京町から行商へ行く途中に毎朝欠かさず参拝をしていたといい、自身の繁栄は瀧尾神社のご利益のおかげと厚く崇敬し、1738年以降数度にわたって社殿の修復を行ったといいます。
「何でも一流を」の考えから2500両(現在価値で約5億円)もの莫大な寄進がなされたといい、現在の社殿も下村家の援助により、江戸後期の1839年(天保10年)から翌年にかけ造立されまとまって現存しており、現在の本殿、拝殿、手水舎、絵馬舎は江戸後期の中規模神社の形態を知る上で貴重なものとして1984年(昭和59年)に京都市の文化財にも指定されています。
これらの由緒から下村彦右衛門にあやかって商売繁盛のご利益、近年はとりわけ仕事運のパワースポットとして知られています。
また彦右衛門は「福助人形」のモデルとしても知られています。
中国から輸入した綿糸を販売し、巨万の富を築いた彦右衛門は、お礼として、瀧尾神社境内にて食事を振る舞ったといいますが、次第に人々は彦右衛門を「福の神のような人」と呼び始め、「福助」の愛称が定着。
そこで、伏見稲荷の人形師が、彦右衛門をモデルにした伏見人形を作ったところ、大人気となり「福助」の名前が全国に広がったといわれています。
現在瀧尾神社では、鳥居前の人形師「欽古堂」に製造型を依頼し、当時の「福助人形」を復刻し、授与品として参拝者に授与しているといいます。
貴船神社の奥院旧殿を移転・改築したものという本殿の前には幣殿、拝殿、東西廊などが立ち並び、境内の絵馬舎には呉服屋時代の店頭や店舗ビルの写真など大丸百貨店ゆかりの絵馬が3枚奉納されており、百貨店の歴史を知ることができるようになっています。
これらの中でも最も見どころなのは本殿・拝殿などに施された江戸後期から明治期の彫刻家・九山新太郎(くやましんたろう)(九山新之丞)による豪華な彫刻で、猿やうさぎといった十二支から、龍、獏(バク)の全身像、鶴、鳳凰、犀(さい)や麒麟、獅子など中には空想上の動物の姿をしたものや本殿の正面には正体不明の霊獣らしき彫刻など、数多くの動物や霊獣の彫刻を見つけることができます。
とりわけ拝殿の天井にある全長8mの巨大な龍の彫刻は立体感と躍動感に溢れ、その見事さから夜な夜な抜け出して近くを流れる今熊野川まで水を飲みに行くとの噂が広がり、神社側では拝殿の天井に網を取り付けて、龍が自由に動けないようにしたという逸話も残るほどですが、現在は網はなくなっており、拝観も自由することができます。
この他にも境内には2000年(平成12年)に遷座された三嶋神社や妙見宮があることでも知られています。
このうち「三嶋神社」は「うなぎ神社」の別名で知られ、うなぎを描いた絵馬を奉納すると安産、子授けに御利益があるといわれ、秋篠宮が参拝されたことでも話題になりました。
行事としては2月の節分祭や毎年9月の最終日曜日に開催され中国古来の「龍舞」が披露される秋の「神幸祭」などが有名です。