京都市東山区本町15丁目、京都市南東にあり紅葉の名所として知られる臨済宗東福寺派大本山・東福寺の塔頭寺院の一つ。
東福寺境内の東端、方丈の脇を奥に進み東福寺三名橋の一つとして知られる偃月橋(えんげつきょう)を渡った先に龍吟庵と並ぶようにして山門を構え、薩摩藩藩主・島津家の菩提寺であるほか、法然上人および西郷隆盛のゆかりの寺としても知られる寺院です。
南北朝時代の1387年(嘉慶元年/元中4年)、九州薩摩(現在の鹿児島県)の守護大名であった島津家の第6代当主・島津氏久(しまづうじひさ 1328-87)が、東福寺第54世・剛中玄柔(ごうちゅうげんじゅう 1311-88)を開山にその菩提寺として創建したのがはじまりで、寺名は氏久の法名「齢岳玄久即宗院」より名づけられました。
その後、戦国時代の1569年(永禄12年)に火災で焼失しますが、江戸初期に第16代当主で戦国大名として名を馳せた島津義久(しまづよしひさ 1533-1611)によって復興が図られ、1613年(慶長18年)頃に再建。
その後も薩摩藩の畿内菩提所として藩より70石が施入されるほど深い関係が結ばれていたといいます。
幕末の1858年(安政5年)には王政復古を志した薩摩藩士・西郷隆盛(さいごうたかもり 1827-77)と清水寺成就院の勤皇僧・月照(げっしょう 1813-58)が、新撰組や江戸幕府の手を逃れてこの即宗院の茶室「採薪亭」にて密談を交わし、討幕の策を巡らしたと伝えられています。
その後、大老・井伊直弼による尊攘派の志士への弾圧が強化され、いわゆる「安政の大獄」が始まると、同年9月に西郷と月照は鹿児島に逃れますが、薩摩藩の当局に受け容れられなかったことから、同年11月16日に2人は錦江湾にて入水し、月照は命を落としました。
一命を取り留めた西郷は苦難を乗り越えて薩摩藩による尊王攘夷・討幕運動を指導するとともに、薩長連合・王政復古の実現に尽力し、1868年(慶応4年)の「鳥羽伏見の戦い」から始まった「戊辰戦争」に参謀として参加して新政府軍の勝利に貢献し、江戸城無血開城によって明治維新を実現させたのは有名な話です。
そしてこの勝利の後、西郷は戦いの戦死者524霊を弔うために当院に半年間滞在し、斎戒沐浴して碑文を書きしたためたといい、そうして1869年(明治2年)に建立されたのが境内奥の高台の上に立つ「東征戦亡之碑」です。
また島津斉彬の養女となり、五摂家筆頭の近衛家の娘として江戸幕府13代将軍・徳川家定に嫁ぐこととなった篤姫(あつひめ 1836-83)は、徳川家への興入れのために薩摩から江戸へ向かう途中、この即宗院に立ち寄ったと伝えられています。
本尊は宝冠釈迦牟尼像で、室町院派の仏師が作成したものと伝わり、また現在の山門は約400年前の1613年(慶長18年)の再興時の遺構で、門の左右には配した石造の仁王像は本山塔頭寺院の山門仁王としては稀有な存在だといいます。
そしてその他にも当院でよく知られているのが「京都市指定名勝」にも指定されている池泉回遊式庭園の「即宗院庭園」です。
この点、当院は創建当時は現在より南に位置していたといい、約800年前の平安後期、その地には時の関白・藤原忠通(ふじわらのただみち 1097-1164)が建立した御所の東御堂がありました。
その後、東御堂は忠通の子で源平争乱期に源頼朝と結んで摂政・関白として活躍し、五摂家の一つである九条家の始祖でもある藤原兼実(九条兼実)(くじょうかねざね 1149-1207)に引き継がれ、1196年(建久7年)に関白を辞した後の晩年には自らの山荘とし、自身が呼ばれた「月輪関白」「月輪殿」の別称にちなんで「月輪殿」と称しました。
本院庭園はその「月輪殿」の跡であり、知恩院の所蔵する鎌倉時代14世紀の絵巻物である国宝「法然上人絵伝」には、優美な寝殿造の邸宅と池庭が描かれていて、また江戸後期の1799年(寛政11年)に発行された京都の名園を案内するガイドブック的な資料「都林泉名勝図絵(みやこりんせんめいしょうずえ)」にも紹介されるなど、名園として知られていましたが、大東亜戦争(太平洋戦争)後に荒廃。
それでも玄之和尚が復興に心血を注ぎ、1977年(昭和52年)に元東大教授で庭園文化研究所の森薀(もりおさむ 1905-88)らの指導によって往時の面影が復元され、山と樹林に囲まれた閑静な地にあって、平安時代以来の地割りを受け継いでいる庭園の学術的価値は高く貴重であるとして「京都市指定名勝」に指定。月輪殿の滝跡の石組や「心」の字体を表す池の地割りなどが当時を偲ばせるほか、紅葉の美しさと千両の鮮やかさで知られています。
通常非公開の寺院ですが、新緑の春と紅葉の秋(11月上旬~12月上旬)の時期に特別公開が行われ、丸に十字や牡丹の島津家の家紋が入ったゆかりの火鉢や重箱、西郷隆盛が好んで揮毫したとされる「敬天愛人」の文字を複写した額や江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜自筆の掛軸といった貴重な文化財が公開され、間近で見学することができます。