京都市東山区本町15丁目、JR・京阪東福寺駅から臨済宗東福寺派の大本山・東福寺の境内へと向かう途中、臥雲橋の手前、東福寺境内の北西側にある、臨済宗東福寺派の大本山・東福寺の塔頭寺院。本尊は文殊菩薩。
室町前期の1390年(明徳元年)、臨済宗の僧・岐陽方秀(ぎようほうしゅう 1361-1424)が「不二庵」として開創したのがはじまり。
岐陽方秀は讃岐国(香川県)の生まれで、1372年(文中元年/応安5年)に京都の東福寺にて侍童となり、次いで山城国・安国寺の霊源性浚(りょうげんしょうしゅん)に就いて剃髪受具し、後にその法を嗣いでいます。
その後、周防国(山口県)の長寿寺、43歳で故郷讃岐の道福寺の住持となった後、再び上洛して1411年(応永18年)に東福寺の第80世となったのをはじめ、1418年(応永25年)には天龍寺の第64世、更には南禅寺の96世などの住持を歴任するなど高僧としてその名を残しています。
また五山文学者として学問にも秀で「日本僧宝伝」などの史伝類を編纂したほか、多くの注釈書を選し、また室町幕府第4代将軍・足利義持(あしかがよしもち 1386-1428)の帰依も厚かったといいますが、晩年は中風を患い、東福寺の栗棘庵中に開いた隠棲先が不二軒であったといいます。
江戸初期の寛永年間(1624-44)に第7世住持となった湘雪守?は肥後熊本の生まれで、細川忠興(三斎)の子で熊本藩初代藩主・細川忠利(ほそかわただとし 1586-1641)と親交があり、その子・細川光尚(ほそかわみつなお 1619-50)も湘雪に篤く帰依していたといい、湘雪が不二庵(現在の霊雲院)に住持する際には寺領500石を贈ろうとしましたが、「出家の後、禄の貫きは参禅の邪鬼なり。庭上の貴石を贈はらば寺宝とすべし」としてこれを辞退したため、細川家は高さ3尺、横4尺余りの青味をおびた小石を四角い石船の中に据え、それを須弥台の上に乗せたものを「遺愛石(いあいせき)」と銘をつけて寄贈したといい、現在に至るまで寺宝として伝えられています。
また幕末にはこの寺で薩摩藩の西郷隆盛(さいごうたかもり 1828-77)と勤王の僧・月照(げっしょう 1813-58)が維新へ向けて密議を交わしたといわれ、1904~1905年(明治37~明治38年)の「日露戦争」の際にはロシア兵の捕虜収容所となった歴史を有していて、境内ではその時に彼らが故郷を想って作成した手作りの楽器などが展示されているといいます。
そして現在の境内で一番の見どころになっているのは2つの枯山水庭園で、いずれも昭和を代表する作庭家・重森三玲(しげもりみれい 1896-1975)が手がけたもので、書院南庭の「九山八海の庭(くせんはっかいのにわ)」と書院西庭の「臥雲の庭(がうんのにわ)」で構成されています。
まず書院南庭の「九山八海の庭」は江戸中期に作庭され「都林泉名勝図会」にも紹介されていましたが、300年の歳月の経過とともにすっかり荒廃していたものを、第16世住持・景峰の熱望により1970年(昭和45年)に重森三玲が修復・復元したもので、世界は須弥山を中心に9つの山脈と8つの海で構成されているという仏教の世界観を表現した庭で、中央に熊本藩細川家から贈られた遺愛石を配して須弥山に見立て、それを取り囲むようにして白砂の波紋が描かれ、山海が表現されています。
一方書院西庭の「臥雲の庭」は寺号「霊雲」を主題に作庭された創造的な枯山水庭園で、ただ無心に峰々を包んでゆく雲と峰々を伝って流れ海へと注ぐ川の水の流れの美しさを白砂や鞍馬砂の波紋や枯滝組で表現したもので、そばには太閤・豊臣秀吉の「北野大茶会」の当時のものを移築したという珍しい2階建ての茶室「観月亭」があることでも知られています。