京都市東山区本町15丁目、JR・京阪東福寺駅から臨済宗東福寺派の大本山・東福寺の境内へと向かう途中、臥雲橋の手前、東福寺境内の北側にある東福寺の塔頭寺院。
東福寺の境内一帯は元々は平安中期の924年(延長2年)頃に藤原忠平(ふじわらのただひら 880-949)が藤原氏の氏寺として建立した「法性寺(ほっしょうじ)」と呼ばれる寺院があった場所で、その後1006年(寛弘3年)には藤原氏の全盛期を築いたことで知られる藤原道長(ふじわらのみちなが 966-1028)が40才の賀にあたって五大明王(ごだいみょうおう)を安置する五大堂を境内に造営しました。
その後も藤原氏は法性寺の造営に力を入れますが、武士の時代となった鎌倉初期には衰微し、その跡地に九條道家(くじょうみちいえ 1193-1252)が建立したのが現在の東福寺であり、同聚院はその東福寺の塔頭の一つとして室町時代の1444年(文安元年)に文渓元作が、その師である東福寺第129世・琴江令薫(きんこうれいくん)を開山に迎え建立したものです。
そして藤原道長が建立した五大堂の遺跡に建てられた寺院であり、本尊・不動明王坐像は藤原道長が旧法性寺に建立した五大堂の中尊と伝わり、東の降三世明王(ごうざんぜみょうおう)、南の軍荼利明王(ぐんだりみょうおう)、西の大威徳明王(だいいとくみょうおう)、そして北の金剛夜叉明王(こんごうやしゃみょうおう)の五大明王の残りの4体が散逸する中で、この像のみが幾多の災害を乗り越えて本寺に祀られています。
像は藤原初期のもので、平等院鳳凰堂の本尊・阿弥陀如来像を造ったことで有名な仏師・定朝(じょうちょう ?-1057)の父である康尚(こうしょう)の作と伝わる現存する数少ない像の一つで、日本最大の木造の不動明王像とされる像高265cmの巨大なもので、両眼を見開き威厳に満ちた豪放な姿をしていますが、忿怒(ふんぬ)の相の中にも優美さをたたえ、藤原美術の代表的な彫刻の一つとして国の重要文化財に指定されています。
また土地の守護する産土の意味である「土力(どりき)」あるいは助けを求める者には10万の眷属を従えて馳せ参じ救うという意味というある「十万」の二文字を合体させて一字にしたとされる特殊な文字を使い、古くより「じゅうまん不動」と称され、背後の火焔で災いをすべて焼き払ってくれるという強い霊験を持ち、火除けをはじめとする除災のご利益で信仰を集めてきたといいいます。
そして毎年2月2日にはこの「十」の下に「万」の字を組み合わせた「じゅうまん」の1字を書いた「屋守護(やさご)」と呼ばれる護符が授与され、護符を門戸に貼っておけば、その家は火災諸難が除かれて福徳円満や子孫繁栄のご利益が授かるといわれています。
また境内の墓地には14歳で祇園の芸妓となり、アメリカの5大財閥の1つであるモルガン財閥の創始者であるアメリカ人富豪・J・P・モルガン(1837-1913)の甥・ジョージ・デニソン・モルガンに見初められ、日本のシンデレラといわれ二人が結婚した1905年1月20日を祈念して「玉の輿の日」が制定されるほどの話題を集めた女性・モルガンお雪(もるがんおゆき 1881-1963)の墓があることでも知られています。