京都市東山区本町15丁目、臨済宗東福寺派大本山・東福寺の最南端、重森三玲が手がけた波心庭で知られる光明院の南側、境内から西へ向けて京都市街を一望出来る高台に位置する東福寺の塔頭寺院。
山号は凌雲山、本尊は釈迦如来。
元々は同じく東福寺の塔頭・永明院の寺域であったといいますが、室町時代の1414年(応永21年)に室町幕府4代将軍・足利義持(あしかがよしもち 1386-1428)が東福寺111世住持・業仲明紹(ぎょうちゅうめいしょう)のために創建し、その菩提寺としたのがはじまり。
現在は豊臣秀吉の妹で、徳川家康の正室となった旭姫(あさひひめ 1543-90)の墓があることで知られています。
1582年(天正10年)の有名な「本能寺の変」直後の「山崎の戦い」で明智光秀を討ち、一躍織田信長の後継者として名乗りを上げた羽柴秀吉でしたが、その後1584年(天正12年)に「小牧長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)」で徳川家康と対立したことから、自軍に引き入れるため1586年(天正14年)5月、自らの妹である旭姫を夫・佐治日向守(さじひゅうがのかみ)と離別させた上で、 当時は浜松城にいた徳川家康に嫁がせます。
当時家康は45歳、旭姫は44歳であったといい、佐治日向守はこの件に立腹し自害したともいわれ、その後家康が駿府城に居城を移すと旭姫も共に駿府城へ移ったことから「駿河御前」と呼ばれたといいます。
もっとも家康はこの婚儀が済んでも上洛しなかったため、秀吉は更に母・大政所(おおまんどころ 1516-92)を岡崎の駿河御前を訪ねるという形で人質として送り、ここに至ってようやく家康は上洛して大坂城にて秀吉に謁見、諸大名の前で豊臣に臣従することを表明します。
1588年(天正16年)、旭姫は家康との和議成立後に大坂城に戻された母・大政所の病気見舞いと称して京都へ上洛しており、その後一時駿河に帰ったものの、再び上洛して聚楽第に住み、1590年(天正18年)1月14日に病気で亡くなると、自らが帰依していた臨済宗の大本山の一つである東福寺の塔頭・南明院に葬られています。法名は「南明院殿光室宗王大禅尼」。
以後はその香華院(菩提寺)となり、徳川家康をはじめ2代・徳川秀忠、3代・徳川家光の歴代将軍は上洛するたびに墓参したといい、その後も徳川幕府の庇護を受けて1697年(元禄10年)には伽藍の修造が行われ、1917年(大正6年)に全焼したものの、その後本堂(方丈)、1977年(昭和52年)には庫裏を再建。本堂(方丈)には徳川家歴代の位牌が安置されているといい、また同院には旭姫の肖像画も所蔵しているといいます。
その他にも南明院2世・吉山明兆(きつさんみんちょう 1352-1431)は周囲からは禅僧として高位を望まれたものの画を好んだことからこれを拒絶して画僧として大成した人物で、如拙や周文の様式を継ぐ相国寺派に対し、東福寺派形成の基礎を築き、その後に登場する室町後期の画僧・雪舟(せっしゅう 1420-1506)に影響を与えたともいわれています。
終生東福寺の堂守の殿司(でんす)の職にとどまったことから「兆殿司」と呼ばれ、初の寺院専属の画家として「五百羅漢図」や「聖一国師像」など多くの優れた仏画や肖像画を残していて、中でも3月の「東福寺涅槃会」で公開される「大涅槃図」は1408年(応永15年)、明兆57歳の時の作品で、縦15m、横幅8mの大きさで国内最大の涅槃図としてよく知られています。