京阪鳥羽街道駅とは?(基本データ)
- 名前
- 京阪鳥羽街道駅(けいはんとばかいどうえき)
- エリア
- 東福寺・稲荷
- ジャンル
- 建立・設立
- 1910年(明治43年)4月15日
- アクセス
- 駐車場
- -
- 拝観料
- なし
- お休み
- 特になし
- 拝観時間
- 時刻表に準ずる
- 住所
- 〒605-0982
京都府京都市東山区福稲下高松町4 - 電話
- 06-6945-4560(京阪電車お客さまセンター)
- FAX
- -
- 公式サイト
- 鳥羽街道駅 京阪電車
鳥羽街道駅 京阪おでかけナビ
京都市東山区福稲下高松町、京都市の南東、十条通と本町通(伏見街道・奈良街道)が交差する付近にある京阪本線の駅。
1910年(明治43年)4月15日、京阪電気鉄道(京阪)の京阪本線が大坂の天満橋駅~五條駅(現在の清水五条駅)の区間で開業するのと同時に設置。
その後、1943年(昭和18年)10月に戦時中の企業統合政策によって、京阪電気鉄道が阪神急行電鉄(現在の阪急)と合併するといったんは阪急の駅となり、終戦直後は一時使用中止になったものの再び使用を開始し、戦後の1949年(昭和24年)12月に京阪神急行電鉄から京阪電気鉄道が再び分離独立すると、再び京阪の駅となり現在に至っています。
駅名となっている「鳥羽街道」は京都市の南部を走る道路で、九条通と千本通の交差する位置にある羅城門跡から南へと南下し、鳥羽を通って京都市の南西端にある伏見区の淀へと至る全長約9kmの街道。
千本通は平安京のメインストリートであった朱雀大路にあたり、羅城門(らじょうもん)はその南端に設けられた平安京の玄関口にあたる門で、そこから真っ直ぐ南下する形で計画的に作られた道路である「鳥羽作道(とばつくりみち)」が起源だといいます。
その名前の由来となった「鳥羽(とば)」の地は京の都のすぐ南にあって京と大坂を結ぶ交通の要衝として栄え、平安後期の白河・鳥羽・後白河の時代には壮大な鳥羽離宮が築かれ、天皇の位を譲位した上で上皇となり、天皇に代わって引き続き政治を行う、いわゆる「院政(いんせい)」の舞台となった場所であり、更に幕末の1868年(慶応4年)1月には薩長を中心とした新政府軍と旧幕府軍が鳥羽街道の鴨川に架かる小枝橋付近で衝突し「鳥羽伏見の戦い」が勃発し、新政府軍の勝利によって明治維新を迎えることとなった場所としても知られています。
もっとも当駅はその鳥羽街道(千本通)からは2km以上も東に位置しており、むしろ京の都と伏見の地を結ぶ「伏見街道」とも呼ばれる本町通(奈良街道)沿いにありますが、これは1902年(明治35年)に当駅の付近から鳥羽街道までの間を東西に結ぶ新たな道、現在の十条通が開通したことで当地から鳥羽街道へと出ることが可能になったため、その最寄駅として命名されたといわれています。
また昭和期に入った1933年(昭和8年)には鳥羽街道と並行する形で旧京阪国道(府道13号京都守口線)が竣工し、更には1966年(昭和41年)には京阪国道(国道1号)が完成したため、鳥羽街道は京都~大阪間の主要道路としての座はそちらに譲ることとなるなど、時代の変化に伴って駅名とのズレが生じてしまっている駅となっています。
相対式2面2線のホームを持つ地平駅で、駅舎は西側の出町柳方面ホームの南側に設けられ、東側の大坂淀屋橋方面ホームへは1968年(昭和43年)に設けられた地下道で連絡しています。
大阪方面ホームの東側にはJR奈良線が並行して通り、更にその東側に本町通(伏見街道・奈良街道)が南北に通り、伏見街道を北へ進んだ先には東福寺があり、距離としては一つ北にある京阪・JRの東福寺駅よりも近くにあり、とりわけ南側にある塔頭寺院へのアクセスには便利となっています。
その他には一つ南にある京阪伏見稲荷の近くにある伏見稲荷の境外摂社である田中神社が伏見街道沿いに鎮座するほか、駅の北西には任天堂の地下鉄十条駅そばの現在の本社に移転する前の2代目本社である「京都リサーチセンター」があるほかは、伏見街道を中心に主に住宅地が広がる地域です。
また駅の西側には国道1号の渋滞を緩和するバイパスとして作られた第二京阪道路の十条通・師団街道と接続する山科方面出入口である「鴨川東IC」および竹田街道と接続する大阪方面出入口である「鴨川西IC」があり、一帯の交通の要衝にもなっています。
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