京都市東山区本町、東福寺の日下門を出て西へすぐの所にある臨済宗東福寺派大本山・東福寺の塔頭寺院。
本尊は阿弥陀如来で、室町時代の禅僧で日本における水墨画の大成者として知られる雪舟(せっしゅう 1420-1506)が作庭したという庭園があることから「雪舟寺」の通称で知られています。
「雪舟」は室町後期の禅僧で、備中(岡山県西部)に生まれ、幼少時に出家し京都・相国寺に入寺し、春林周藤(しゅうりんしゅうとう)に師事して「等楊(とうよう)」の諱(いみな)を与えられ、この間に画法を周文に学んだといいます。
34~35歳頃まで相国寺で修行した後、寛正年間(1460-66)にに周防(現在の山口県)に移って守護大名・大内教弘(おおうちのりひろ)の庇護の下に画房「雲谷庵(うんこくあん)」を営み、この頃から画僧として名が知られるようになります。
そして「雪舟」の号は1462年(寛正3年)頃より用いられたとみられ、愛蔵していた元の禅僧・楚石梵琦(そせきぼんき)の墨跡「雪舟」の二大字にちなんで名づけたものといわれています。
雪舟が山口に移ったのは日頃より憧れていた中国の宋・元の水墨画を自分の目で見たいとの思いから、中国へ渡る機会を窺うため対民貿易の拠点であった周防山口を選んだものと考えられていて、その念願が叶い1467年(応仁元年)に室町幕府の貿易船で中国・明へと渡り、禅の修行をするとともに水墨画の名作に触れる機会を得た後、2年後の1469年(文明元年)に帰国。
その後は大分にて画房「天開図画楼(てんかいとがろう)」を構えた後、山口にて雲谷庵を再興し、以降は山口を拠点に亡くなるまで作画活動に勤しむ一方、京都や丹後、美濃など諸国を行脚して各地の景色を写し多くの傑作を生み出し、後世の狩野派や長谷川派にも大きな影響を与えたといわれています。
代表作は「四季山水図」「山水長巻」「秋冬山水図」のほか、京都に関連する作品としては国宝の「天橋立図」を描いたことでも知られています。
一方「芬陀院」は鎌倉後期の元亨年間(1321-24)、一条家の5代当主で関白、左大臣などを務めた一条経通(いちじょうつねみち 1317-65)が父の関白・一条内経(いちじょううちつね 1291-1325)のため、東福寺開山・円爾(聖一国師)の法孫にあたる定山祖禅(じょうざんそぜん 1298-1374)を開山として創建したのがはじまり(一条内経によって創建されたとする説も)。
それ以降今日に至るまで摂関家の一角を占める一条家の菩提寺とされ、当院の院号は一条内経の法号「芬陀利華院」にちなむものだといいます。
ちなみに一条経通は東福寺との関係が深く、土地を寄進したほか、焼失していた本堂(仏殿)再建の上棟も行っています。
そして現在の建物は1691年(元禄4年)と1755年(宝暦5年)の2度の火災の後、桃園天皇の中宮・恭礼門院の旧殿を賜り移築し、更に1899年(明治32年)に昭憲皇太后から御内帑金(ないどきん)を下賜されて改築したものです。
また方丈南側の枯山水庭園「鶴亀の庭」は室町時代の寛正年間(1460-66)、雪舟の作と伝えられ、雪舟が京都で唯一手がけた庭園ともいわれています。
雪舟は幼少期を生まれ故郷である備中岡山の宝福寺で過ごしており、修行を疎かにして絵ばかり描いていたため本堂の柱に縛り付けられたところ、足の指を使い涙で足元に鼠(ネズミ)の絵を描き、住職が本堂を覗いてみると雪舟の描いた鼠がまるで生きているかのように見えたというエピソードはあまりにも有名です。
そしてその宝福寺が東福寺の末寺であり芬陀院にゆかりがあったことから、雪舟が東福寺に参拝した際には当院に宿泊していたようで、ある時、当時の大檀徒であったという一条兼良(いちじょうかねよし 1402-1481)が亀を絵を描くことを所望したところ、雪舟は筆はとらずに庭に石組をして亀を作ったといい、そうして生まれたのがこの庭園だといいます。
流れるような白砂と、その奥に一面に広がる美しい苔の中に鶴島と亀島の石組みがあるのが特徴で、京都の枯山水庭園としては最古の庭園の一つともいわれていて、その後、元禄と宝暦の火災などにより一部荒廃し、現在の庭園は1939年(昭和14年)に昭和を代表する作庭家・重森三玲(しげもりみれい)によって復元されたもので、一石も補足することなく往年の姿が再現されているといいます。
また方丈の東側にある「東庭」は南庭が修復された際に重森三玲によって新たに作庭された枯山水庭園で、こちらにも鶴亀の庭があり、仙人が住む不老不死の地である蓬莱山が表現されているといいます。
そして方丈の背後には「茶関白」といわれるほど茶道を愛した一条昭良(恵観)好みの茶室「図南亭(となんてい)」があり、その丸窓から望む東庭は実に趣きがあり、撮影スポットとしても人気を集めています。