石塔寺
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石塔寺のみどころ (Point in Check)
京都府向日市鶏冠井町山畑、物集女街道の一筋東の旧西国街道沿いにある日蓮宗寺院で、本化日蓮宗の本山。
山号は法性山、本尊は十界大曼荼羅。
寺の位置する鶏冠井町は、784~794年に長岡京の大極殿などが置かれた都の中心地であり、 藤原種継暗殺事件の舞台となった場所で、その後は寺の前を通る西国街道を行き交う人々で賑わった場所です。
1877年(明治10年)にまとめられた「乙訓郡寺院明細帳」によれば、鎌倉末期の1310年(延慶3年)3月8日、日蓮の法孫・日像が向日神社前に「南無妙法蓮華経」の題目石塔を建てたのがはじまり。
この点、現在の石塔寺から歩いて10分ほど位置にある向日神社の門前には、法華経を広めた日像上人の説法石が残されています。
日像は京都にて他宗の迫害を冒して教化につとめ、朝廷から洛外追放の法難にあい、京都七口に法華題目の石塔婆を建てようとして、まず向日神社の社頭に建立。
鶏冠井町は、京都の松ヶ崎と並んで西日本ではじめて日蓮宗が広く普及した地としても知られ、住民のすべてが法華の信徒という地域で「鶏冠井(かいで)法華」と呼ばれました。
その後、室町時代の1470年(文明2年)、日成の時代に石塔の傍らに本堂を建立し「石塔寺」と称したといます。
江戸初期の元和年間(1615-24)に勧修寺宮の御殿を賜り本堂を再建し、同じ頃に日蓮宗以外の人からは布施を受けないという不受不施派の寺院として幕府に願い出るも、1666年(寛文6年)に不受不施が禁制とされたため妙顕寺派に属すこととなりますが、寛文年間(1661-72)に独立本山となり、近畿一円に33か寺の末寺を従える大寺院となります。
この点、現在の周辺一帯には「御塔屋敷」「御塔下」「御塔道」など本寺の伽藍にちなんだ地名が残されており、往時の大寺院であった頃を偲ばせます。
そして1876年(明治9年)には鶏冠井村の興隆寺を合併吸収すると、翌1877年(明治10年)には本堂・庫裏・座敷・小座敷・塔堂・七面堂・妙見堂・鐘楼・門などの伽藍が整えられ、更に戦後の1954年(昭和29年)に日蓮宗から独立し本化日蓮宗の本山単立寺院となり現在に至っています。
境内には本堂のほか、寺名の起こりとなった日像上人筆の題目石塔婆および日像上人石像を安置する塔堂や七面堂などの堂宇が配され、また前庭は松と石畳が印象的で、山吹やつつじが見事な花を咲かせることでも知られています。
そして行事としては毎年5月3日に開催される釈迦のご誕生を祝う「花まつり」において11時からの稚児行列の後、13時半から披露される日像が炊いたご飯の湯気により「南無妙法蓮華経」の題目が白く浮かび上がっていくのを見て村人が歓喜する様を表現した奉納舞「鶏冠井題目踊(かいでだいもくおどり)」で知られています。
この点「題目踊り」は、当寺に伝わるもののほか、京都洛北の松ヶ崎や修学院のものと全国に3か所のみに残る珍しい民俗芸能で、中でも輪になって踊る盆踊り形式の念仏踊りが松ヶ崎などに伝わっているのに対し、当寺のものはより古い形式を残していると考えられ、1985年(昭和60年)5月15日には京都府の無形民俗文化財に指定されています。
石塔寺の施設案内
境内
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山門
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寺号標
山門左
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法華題目石塔
山門右
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日像菩薩御石像
寺号標の奥
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前庭
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本堂
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塔堂
寺名の起こりとなった日像上人筆の題目石塔婆および日像上人石像を安置
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七面堂
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迹殿
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鐘楼
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庫裏
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周辺
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五辻交差点
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物集女街道
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説法石
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鶏冠井興隆寺跡
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石塔寺の主な年間行事・カレンダー
年中行事
- 3月春分の日
春季彼岸会
- 5/3
花まつり・鶏冠井題目踊り
- 8/15
盂蘭盆会
- 9月秋分の日
秋季彼岸会
- 10/12
御会式
- 12/31
除夜の鐘
月並行事
- 毎月13日
お塔さん会
花ごよみ
石塔寺のレポート・旅行記
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