長岡京(ながおかきょう)は、784(延暦3年)11月11日から平安京へ都が遷る794年(延暦13年)10月22日までの約10年間、平城京と平安京との間に日本の首都が置かれていた所で、山背国乙訓郡長岡村、現在の京都府の南西部の向日市、長岡京市、京都市西京区付近にあったといわれています。
それまでの都であった奈良の平城京(へいぜいきょう)は,水上交通路が不便であり、また政治と仏教勢力との結びつきが強くなり過ぎたこともあり、第50代・桓武天皇(かんむてんのう 737-806)は新しい都へ遷ることを考えたといい、長岡の地が選ばれたのは水陸交通の便が良く、また当時の天皇の側近で長岡京遷都の最高責任者である造長岡宮使(ぞうながおかきゅうし)に任じられた藤原種継(ふじわらのたねつぐ)がこの地を本拠とした秦氏と姻戚関係にあったことから協力が得やすいと考えたからといわれています。
ところが都の造営が行われ始めた直後の遷都翌年の785年(延暦4年)9月23日に起きた「藤原種継暗殺事件」により事態は一変します。
この事件の実行犯や共犯者たちは捕えられて死罪あるいは流罪となりましたが、この中に桓武天皇の弟で皇太子であった早良親王(さわらしんのう 750-85)の関係者がいたことから早良親王自身にも嫌疑がかけられ、親王は乙訓寺に幽閉の後淡路に流されることとなり、その途中で絶食して無実を訴えたままこの世を去りました。
すると早良親王の死後に桓武天皇夫人・藤原旅子(ふじわらのたびこ 759-88)、桓武天皇生母・高野新笠(たかののにいがさ 720-90)、そして桓武天皇皇后で平城天皇と嵯峨天皇の生母・藤原乙牟漏(ふじわらのおとむろ 760-90)が相次いで亡くなり、更に後に平城天皇となる皇太子・安殿親王(あてしんのう)も重病となるなど天皇の周辺で不幸が重なったことから、これらが早良親王の祟り、怨霊によるものといわれ、また792年(延暦11年)にも長岡京で2度にわたって大洪水があるなど、良くないことが相次いだため、和気清麻呂(わけのきよまろ)の進言をを容れ、桓武天皇は平安京へと再び遷都を行うことを決意。
長岡京の都としての歴史はわずか10年で幕を閉じることとなり、主な建物は解体されて新しい都である平安京へと移されて姿を消していき、徐々に田園地帯へと姿を変えるとともに、都としての歴史は地中にて長い眠りにつくこととなります。。
長岡京がいったいどんな都でどこまで完成していたのかにについては、歴史の記録においても和気清麻呂の伝に10年経過しても未完成であったとする一方、914年(延喜14年)の三善清行(みよしのきよゆき)による「意見封事十二箇条」では造営は終わっていたとしているなど意見が分かれていて、本格的な調査が進められるまでは正確な位置も不明であり、また都としての期間が短かったことから未完成のままで終わった文献上たけの「幻の都」といわれてきました。
ところが昭和に入り京都出身の歴史地理学者で長岡京の歴史の解明にその生涯を捧げ、多大な業績を残した中山修一(なかやましゅういち 1915-97)による発掘調査で、長岡京が都としての体裁がかなり整っていたことが判明します。
中山氏は西京高校に教師として勤務するかたわら、自らの興味で長岡京の研究に没頭。1954年(昭和29年)から私財を投じて発掘調査を開始すると、翌年には長岡京の中心部にあたる大内裏の朝堂院南門を発見、これが長岡京が実在したことが初めて確認された記念すべき調査となります。
1959年(昭和34年)と1961年(昭和36年)に宅地開発を契機に行われた調査で大極殿跡も発見され、本格的な都として整備されたことも判明。
その後も1000回を超える発掘調査が行われた結果、その規模は東西に4.3km、南北に5.3kmと平城京や平安京にも劣らないくらいの大きさで、現在の向日市、長岡京市、大山崎町、更には京都市南区・西京区の一部を含むエリアにあったことが分かり、それらは大きく天皇の住居や儀式を行う場である内裏・大極殿・朝堂院や役所などが立ち並ぶ「宮域(長岡宮)」と、貴族や役人などの住居がある「京域」に分かれ、宮域は向日市にあり、京域は向日市のほか、長岡京市、大山崎町、京都市にかけての広範囲に及んでいたことが判明します。
ちなみに「続日本紀」にあるように約半年間という短期間での遷都が可能だったのは、宮域中心部の建物の建造にあたっては瓦まで含めた建築資材の多くが平城京や難波宮などの旧宮から再利用されたためと考えられています。
そして長岡京の遺跡が発掘された一体は元々は農村地帯でしたが、高度経済成長期に入るとともに急速に開発され、とりわけ長岡宮跡(宮域)周辺は阪急西向日駅に近いことから宅地化が進んでおり、その歴史的財産を守るため発掘された宮跡は1964年(昭和39年)に国の史跡に指定され、保存整備が進められることとなります。
これらの長岡宮跡のうち、まず1962年(昭和37年)に発掘された長岡宮跡のうち天皇が政務や儀式を執り行う場所で、即位や元旦の朝賀、外国使節の謁見などに用いられた長岡宮の中でも最も重要な建物である「大極殿(だいごくでん)」と、大極殿の後ろの建物を意味し後殿(こうでん)とも呼ばれる天皇が大極殿に出向く際の控えの間「小安殿(しょうあんでん)」の跡については、1965年(昭和40年)に史跡公園「大極殿公園」として整備されています。
毎年11月11日に長岡京遷都を記念して行われる「大極殿祭」ではこの場所で式典が行われ神楽が奉納され、また春は桜の名所として知られ、普段も地域住民の憩いの場として親しまれており、2007年(平成19年)には「日本の歴史公園100選」にも選定されています。
次に国家の政務・儀式を行う場所で、政務を司る役所の公卿たちが政務を評議する現在の国会議事堂のような施設である「朝堂院(ちょうどういん)」の跡については、東西に4つずつ、計8つの建物があったうちの西側の一番南の4番目の「西第四堂」が1982年(昭和57年)の発掘調査により確認された後、1992年(平成4年)に国の史跡に追加指定され、2010年(平成22年)には史跡公園「朝堂院公園」として整備され、一般開放されています。
ちなみに同公園には多機能トイレを併設した案内所が設置されていて、文化財案内員が駐在し長岡京の歴史や見どころを丁寧にガイドしてくれます。
また「東第四堂」の跡も発掘されており、こちらは阪急西向日駅の東口の前にあって「西向日公園」として整備されています。
この他にも長岡宮の役所を囲む塀(土塁)の跡である「築地跡」や、天皇の住居である内裏に住む天皇を警護するために造られ兵衛たちが巡回したと思われる「内裏内郭築地回廊跡」を整備した「内裏公園」、天皇や皇族が本来の住居とは別に設けた「離宮跡」と思われる場所に整備した「東院公園」などがあります。
そして長岡宮跡に関連する施設としては、発掘された木簡などの出土品を大極殿・朝堂院の復元模型とともに展示する「向日市文化資料館」が向日市に、また長岡京の発掘とその保存活動に尽力した中山修一の足跡と発掘の成果を見ることができる「中山修一記念館」が長岡京市にあり、史跡と合わせて見学するのがおすすめです。
また毎年11月中旬の土日に開催される向日市を挙げての「向日市まつり」では、長岡京期の華やかな宮廷衣裳を着た人々による「大極殿衣裳行列」が会場内を練り歩きイベントに花を添えます。