京都市北区等寺院中町、足利将軍家の菩提寺として知られる等持院の南東、嵐電等持院駅の北側に鎮座する神社。
神社の創建については平安初期の延暦年間(782-806)ともされていますが、その詳細については不詳とされています。
神社は平安京以前から衣笠山の山麓に鎮座し、この地に鎮まる先人(開拓者)たちの代々の霊を祀る社であったといい、そのため「衣笠御霊」と呼ばれていたといいます。
この点、この開拓の祖神は「天照国照神(あまてるくにてるのかみ)」や「大国御魂神(おおくにみたまのかみ)」と呼ばれていたといいますが、「天照」からの連想からか、いつしかこの社の祭神として天照大神(あまてらすおおかみ)ら6柱を勧請し「六請神」と呼ばれるようになったといいます。
そしてこの「六請神」には延喜式二十二社の中で最も重要視された上七社のうち平野神社以外の六社(伊勢、石清水、賀茂、松尾、稲荷、春日)から神様を勧請したしたことになりますが、6柱に限定されたのは、衣笠が中世以降に埋葬地となったため霊を守る六地蔵の信仰と習合して六の字が社号に加えられたためではないかと考えられています。
また「衣笠」の地名の由来については第59代・宇多天皇が真夏に雪景色が見たいと所望し山に白絹をかけさせたという逸話により「きぬかけ山」とも呼ばれるようになったという説もありますが、この地は古くから葬送地で遺骸を風にさらし風化を待ついわゆる風葬の際に絹掛で蔽い頭に笠を被せたことにちなんでいるともいい、一説には1005年(寛弘2年)に藤原道長が怨霊の祟りを畏れて衣笠山で御霊会を催し、霊を祀る「衣笠岳御霊社」を建立したとしており、その後身として後に六所明神と呼ばれたともいわれています。
室町時代の1397年(応永4年)には第3代将軍・足利義満が足利将軍家の菩提寺である「等持院」の鎮守社として六座の大神を勧請、その境内に祀られるようになったといい、西園寺家伝来の記録「管見記」によれば、1433年(永享5年)および1443年(嘉吉3年)に神前で猿楽が行われたと記されてます。
その後は等持院のみならず同じく足利家と関わりの深い相国寺の境外塔頭・真如寺の鎮守にもなり、また近世には周辺の小松原村・等持院門前町の産土神としても崇敬され、明治初期の「神仏分離令」によって等持院境内から東側の現在地に遷されています。
現在も等持院、小松原一帯の氏子から厚く崇敬を集めているといい、毎年10月下旬の「例祭(神幸祭)」では神輿渡御が行われて氏子区域を巡行するほか、境内南西にある念佛寺や等持院の前では差し上げも行われます。
また境内の拝殿の右側には大きな石を祀る「力石大明神」があることでも知られ、古来より祈願して石を持ち上げられれば、あらゆる力を授かると伝えられていますが、現在は社務所にて小石を授かり氏名・性別・年齢と願い事を書いて奉納する参拝方法となっていて、石を持ち上げたのと同じご利益を授かることができるといいます。