京都市右京区太秦森ケ東町、三条通沿いにある嵐電の蚕ノ社駅の向かって北側にある大鳥居をくぐって道をまっすぐ進んだ先に鎮座する神社。
延喜式における式内社(名神大社)で、旧社格は郷社。
正式には「木嶋坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)」といいますが、通称は「木嶋神社(このしまじんじゃ、木島神社)」、また本殿東側にある摂社の養蚕神社(こかいじんじゃ)にちなんで「蚕の社(蚕ノ社)(かいこのやしろ)」の名前でよく知られています。
祭神は学問の神であり、祓いの神でもある天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)を主祭神に以下の4柱
大国魂神(おおくにたまのかみ)
穂々出見命(ほほでみのみこと)
鵜茅葺不合命(うがやふきあえずのみこと)
瓊々杵尊(ににぎのみこと)
そして本殿東側の養蚕神社(蚕の社)には養蚕・織物にご利益のある萬機姫(よろずはたひめ)が祀られています。
詳しい創建の時期は不明ですが、嵯峨野・太秦一帯は渡来系氏族の秦氏が開拓した地であり、広隆寺や松尾大社、蛇塚古墳などの秦氏に関連する史跡とともに当社も秦氏ゆかりの神社といわれており、一説には推古天皇の時代の604年(推古天皇12年)、秦氏による広隆寺の創建に伴い勧請されたとの伝承もあります。
しかし文献上では「続日本紀」の大宝元年(701)4月3日の条に、この神社の名前が記載されており、それ以前から祭祀されていた京都市内でも最古の神社の1つと考えられています。
社殿はいずれも明治以降の再興で、本殿は境内の中央北寄りの、やや高所に建てられています。
しかし有名なのは「蚕の社」の通称で呼ばれる由縁となっている「養蚕神社(こかいじんじゃ)」が、境内に摂社として祀られている点で、木島神社本殿の東側、正面向かって右側に東本殿として配され、その前にも拝所・拝殿が設けられています。
この点、渡来系の秦氏は養蚕を日本に伝えたことでも知られていて、秦氏とのつながりが深いこの地は古くから養蚕、機織、染色技術の中心地であった場所であり、養蚕神社もこれにちなみ渡来人の秦氏が養蚕と織物の神を祀ったものと推測されていいて、現在も製糸業者の信仰があるといいます。
この他にも境内の北西隅、本殿の西側(向かって左側)に繁茂した樹木に囲まれるようにある神池に「三柱鳥居(みはしらとりい)」があることでも知られ、その大変珍しい形状から「京都三鳥居」の1つにも数えられています。
明神鳥居を三つ組み合わせた石鳥居で、柱3本を三角形に組むことで、三方から宇宙の中心を表すかのように鳥居の中心に石で組まれた祭神の神座(かみくら)を拝することができるようになっていますが、建てられた年代も、何のために建てられたかも不明で、様々な説があるといいますが、現在の鳥居は江戸時代の享保年間に修復されたものだといいます。
ちなみに三柱鳥居のある神池は「元糺の池(もとただすのいけ)」と呼ばれ、現在は涸れているもののかつては湧水が豊富であったといいます。
この点「糺」は正す=誤りをなおすという意味で、罪や穢れがある場合に禊ぎを行ない心身を清めるための場所で、現在も土用の丑の日にこの池に手足を浸すと、諸病にかからないとして信仰を集めています。
同様に社叢は「元糺の森」と呼ばれ、「糺の森」といえば世界遺産にもなっている下鴨神社のものがよく知られていますが、これは木島神社の由緒によると下鴨神社の森が「糺の森」と呼ばれるようになる以前、元々は木嶋社の社叢が「糺の森」と呼ばれ、嵯峨天皇の時代に潔斎の場が当社から下鴨神社に遷されたため「元糺」と呼ぶようになったのだといわれています。
ちなみにこの「元糺の森」の巨樹の社叢は、古来の姿がうかがえる京都の歴史上重要な遺跡であるとして、1985年(昭和60年)に京都市の史跡にも指定されています。