京都府長岡京市粟生西条ノ内、西山の麓の粟生広谷に位置する西山浄土宗の総本山。
山号は報国山で院号は念仏三昧院、開基は熊谷次郎直実。
平安末期の1175年(承安5年)、浄土宗の宗祖・法然(円光大師)が43歳の時に、初めて「念仏」の教えを説いた立教開宗の地とされる浄土宗ゆかりの地の一つで、「法然上人二十五霊場」の一つにも数えられています。
法然は15歳の時(異説には13歳)に比叡山の皇円について得度、比叡山黒谷の叡空に師事して「法然房源空」と名乗ります。
そして24歳のとき、学匠となるべき師を求めて奈良へ向かうため叡山を降りられた時、この粟生野の里で当時の村役・高橋茂右衛門宅に一夜の宿を借りました。
その時茂右衛門夫婦は、法然の強い仏法への気持ちと、広く民衆を救われる道を求めての旅である事を聞き、「まことの教えを見いだされましたならば、先ず最初に私共にその尊いみ教えをお説き下さいませ」と懇願したといいます。
それから約20年の時が流れた1175年(承安五年)の3月、43歳にして遂に浄土宗を開くことができた法然は、茂右衛門夫婦との約束りこの粟生野の地で初めて念仏の教えを説いたといい、このことから「浄土門根元地」とも呼ばれています。
光明寺の創建はそれから更に時が流れ鎌倉初期の1198年(建久9年)のこと、法然の弟子・熊谷直実(くまがいなおざね)(蓮生(れんせい))が、法然を開山第1世に請じて、法然ゆかりの粟生の地に「念仏三昧院」を建立したのがはじまりです。
「平家物語」でも有名な熊谷次郎直実は、源平が戦った「一ノ谷の合戦」で平敦盛の首を獲るなど、武将として華々しい活躍をしたことで知られていますが、しかしその後は戦いの明け暮れた日々と殺生に世の空しさを感じ、積もる罪業を償い極楽往生へと進む道を求めて法然を訪ねたといいます。
これに対し法然は「どんなに罪は深くとも、念仏さえ一心に申せば必ず救われる」と説き、この有り難い教えに歓喜した直実は直ちに出家・剃髪してその弟子となり、蓮生房と称したといいます。
そして念仏三昧の日々を送るため、法然が43歳の時に初めて念仏の教えを説いたとされる西谷粟生の地に草庵を結んだといわれています。
その後、第3世・幸阿の代の1212年(建暦2年)正月25日に法然が入滅すると、1227年(嘉禄3年)には比叡山の衆徒が大谷(東山吉水付近)に埋葬されていた法然の墓を暴き遺骸を鴨川に流そうと企てたいわゆる「嘉禄の法難」が発生。
この際に遺弟たちは秘かに遺骸を入れた石棺を嵯峨の二尊院、そして太秦の西光寺に移しますが、すると翌安貞二年正月20日の夜、石棺より幾筋かのまばゆい光明が発せられ、南西方向の粟生野を照らすと言う奇瑞が現れたといいます。
そこで同月25日、法然の遺骸を粟生野の地で荼毘に付し、寺の裏山に遺骨を納めて本廟が建てられることとなり、更にこの事を耳にした四条天皇から「光明寺」の勅額が与えられたことから、以後念仏三昧院は「光明寺」と称するに至ります。
その後、浄土宗においては法然の弟子である西山上人(証空)が西山義の教えを広めていき、「浄土宗西山派」が成立しますが、その弟子の浄音は証空の教えの上に更に自らの考えをも交えた西谷(せいこく)流を提唱し、光明寺の他に禅林寺(永観堂)も主な拠点として西山義、西谷流の教えを広めることとなります。
そして明治期に入った1876年(明治9年)には光明寺は浄土宗西山派の西本山となりますが、1919年(大正8年)に浄土宗西山派はそれぞれの考えの違いから浄土宗西山光明寺派(戦後に西山浄土宗)、浄土宗西山禅林寺派、浄土宗西山深草派の3つにそれぞれ分裂し現在に至っています。
伽藍は室町末期に顕空登順が再興するも、「応仁の乱」をはじめ何度も火災に遭っており創建当時の建物は残っておらず、現在の諸堂は江戸時代に整備されたものです。
6.6haともいわれる広大な敷地に回廊で結ばれている壮大な造りの御影堂と阿弥陀堂を中心として32棟の建造物があり、そのうち17棟が長岡市の指定文化財となっています。
このうち「御影堂」は1753年(宝暦3年)の再建で、堂内には法然が母親からの手紙で作ったという「張子の御影」が安置されているほか、御影堂の裏には法然上人の遺骨も眠る御本廟、更に御影堂の右手前の石の柵に囲まれた大きな石棺は「圓光大師御石棺」として現在も大切に守られています。
また回廊によって続く「阿弥陀堂」は1799年(寛政11年)の再建で、本尊の阿弥陀如来像は熊谷蓮生が琵琶湖畔の堅田にある浮御堂から背負って来たといういい伝えが残されています。
以上のように法然ゆかりの地として知られる光明寺ですが、近年はとりわけ紅葉の名所としてよく知られています。
「もみじ参道」と呼ばれる約200m続く緩やかな坂道の参道の両側には数百本といわれる楓の木があり、紅葉の季節には真紅の色鮮やかな「もみじのトンネル」となるほか、晩秋期には参道の石畳が「散り紅葉」で埋め尽くされ、息を飲む美しさとなります。
見頃の時期には長岡京市観光協会主催で「もみじ祭」も開催され、多くの観光客で賑わいます。