京都市東山区三条通白川橋下る東側梅宮町、地下鉄東西線の東山駅から白川の東側を川に沿って南へ下がった和菓子店「餅寅」の脇の路地を入った所にある戦国武将・明智光秀(あけちみつひで 1528-82)の首塚。
1582年(天正10年)6月2日、歴史上の大事件「本能寺の変」で主君・織田信長(おだのぶなが 1534-82)を急襲し自刃に追い込んだ明智光秀は、「中国大返し」で備中高松城(岡山市)から京都へと戻ってきた羽柴秀吉(はしばひでよし 1537-98)と、6月13日に天下分け目の天王山となった「山崎の戦い」で戦って敗れ、わずかな家臣とともに自らの居城である近江の坂本城へ逃れる途中、山科小栗栖(おぐりす)の竹薮で地元の農民による落ち武者狩りに遭って重傷を負い、自害して最期を遂げたといわれています。
光秀は家臣に首を打たせ、その首は家臣によって持ち去られ知恩院近くまで運ばれますが、夜が明けたため粟田口付近のこの地に首を埋めたとも伝えられていますが、吉田神道宗家・吉田家9代当主でもある公家・吉田兼見(よしだかねみ 1535-1610)の記した日記「兼見卿記(かねみきょうき)」によれば、光秀の首は15日までに発見され、18日から粟田口の刑場にて重臣の首とともに数日晒された後、22・23日にはすぐ近くの「粟田口の東路次の北」に首塚が築かれて埋葬されたと記されています。
そして京都町奉行所の与力を務めた神沢貞幹(杜口)(かんざわていかん(とこう) 1710-95)の随筆「翁草(おきなぐさ)」によれば、その後江戸後期の1771年(明和8年)の春頃に光秀の子孫を名乗る「能役者 笛 明田理右衛門」が塚にあった五重石塔を譲り受けて三条通の粟田口の北側の人家の裏側の自らの邸宅に移して祀ったと記されており、その後、理右衛門が京都を去ると五重石塔は現在地に移されて、明智光秀を弔う地として知られるようになり、光秀の首もこの地に埋められたと伝えられています。
現在は「明智光秀首塚」として、塚の隣に店を構える和菓子店「餅寅」をはじめ地元の人々の手で大切に守られ続けていて、毎年8月下旬には地元の「地蔵盆」に合わせて光秀の法要が行われ、光秀の木像も年に1度の御開帳がなされ、その遺徳を偲びます。
ちなみに明智光秀を弔う場所としては、その他にも山科小栗栖の「明智藪・胴塚」のほか、首塚として亀岡の「谷性寺(光秀寺)」や娘の玉(ガラシャ)が嫁いだ細川家が当時治めていた宮津の「盛林寺」などが知られています。