京都府京都市中京区大宮通御池下ル三坊大宮町、二条城の南側、御池通と三条通の間の大宮通沿いにある江戸初期に建造された小川家の個人所有の町家で、「二條陣屋」の名称は一般公開にあたって小川家によって命名されたものだといいます。
この点、確たる古文書などは存在はしないものの言い伝えによれば、小川家の先祖は六角氏、浅井長政、織田信長、明智光秀、柴田勝豊と主君を変え、その後は豊臣秀吉に仕えて伊予今治(現在の愛媛県)7万石の城主となったものの、1600年(慶長5年)の有名な「関ヶ原の戦い」にて、当初西軍に味方していたものの、小早川秀秋の寝返りに呼応して脇坂安治、朽木元綱、赤座直保らとともに合戦中に東軍へと寝返り、結局徳川家康からは許されずに所領を没収された土佐守・小川祐忠(おがわすけただ ?-1601)だといわれています。
当屋敷はその小川祐忠の長男といわれる千橘(せんきつ)が商人として身を立て直し、武士に俸禄として現物支給される米を貨幣に、また旅人のために金・銀貨を銅銭に交換して手数料収入を得る米・両替商を「萬屋平右衛門」の屋号で営み、その店舗兼住宅として1670年(寛文10年)頃に建造されたものだといい、現在も小川家の子孫が生活を続けているといいます。
屋敷のある場所は二条城の南側で、京都所司代屋敷や東西の京都町奉行、六角獄舎などの幕府の四方関連の建物が集まる地区であり、元々は現在の民事裁判にあたる「公事」に携わる「公事師」、京都所司代や町奉行の訴状の代書や罪人への面会の手続きなど、現在の弁護士や司法書士のような仕事で財をなし、また裁判を待つ大名の逗留先として利用されるようになり「公事宿(くじやど)」とも呼ばれたといいます。
更にその地の利を活かして京都に藩邸を持たない地方の大名の京都上洛時の宿泊所「本陣」としても利用され、西国大名の御用達となり、後には商人でありながら小川姓を名乗ることを許されたといいます。
このような経緯から屋敷には通常の住宅にはない特殊な構造や設備が施され、防火のための土蔵造りの外壁や井戸のほか、建物内部は迷路のように入り組んだ構造となっており、また24室の部屋や階段、廊下などには敵の侵入を防ぐとともに、万一の時には大名らが安全に逃げることができるよう、敵から身を守るための工夫が随所に施されているといいます。
天井裏に隠された見張り部屋「武者隠し」や、階段に取り付けられた引き戸を開けることで追ってきた敵を踏み外させることができる「落とし階段」、避難用の通路で普段は吊り上げているため棚のように見える「吊階段」など、忍者屋敷のような仕掛けが訪れる者の好奇心を満たしてくれます。
また数奇屋造の建築様式で、泊り客の目を和ませる風雅な造作も見られるなど極めて繊細優美で建築学的価値も非常に高いとされていて、1944年(昭和19年)に数奇屋式住宅・陣屋式建築・防火建築の3点から、主屋、北土蔵、西土蔵の3つの建物が当時の国宝保存法に基づく国宝に指定された後、戦後の1950年(昭和25年)に文化財保護法により「国指定重要文化財」に指定されていて、民家建築としては1937年(昭和12年)に指定された大阪府羽曳野市の吉村家住宅に続いて2番目の指定だといいます。
京の町家の中でも最大級の規模を有し、長い廊下を進んだ先にある陣屋で最も広い15畳の部屋で応接の間として使用された「大広間」や、普段敷かれている畳を上げると能舞台となる「お能の間」、一畳台目の対面式茶室「皆如庵」、船上にいる不安定な感覚を楽しむため屋敷横の小川に乗り出すように造られたという天井が屋形船の形をした茶室「苫舟の間」など部屋は26室あり、どの部屋も茶室としての使用が可能だといい、また嘉永年間(1848-54)に作られた珍しいタイル貼りの風呂場も見どころです。
ちなみに小川家の出自については小川祐忠の子孫との説の他にもう一つの説があり、大和国吉野郡小川郷(奈良県吉野郡東吉野村)の豪族で、鎌倉・室町時代に奈良の興福寺に属した寺領荘園の管理者である荘官であった小川氏の末裔との言い伝えがあるといいます。
公事訴訟、出納の知識を有する荘園の荘官であったことが、後に公事宿や米・両替商を営むことができた理由であると考えられるほか、また当家には「春日の間」という奈良の故郷を偲んで作られたと思われる部屋があり、また薬草の産地であった吉野の出身であることを伺わせる「木薬屋平右衛門」と名乗ったときの金看板も現存しているといいます。