京都市上京区にある高野山真言宗の寺院で、正式名称は「光明山歓喜院引接寺(いんじょうじ)」ですが、「千本閻魔堂(せんぼんえんまどう)」の通称で知られています。
百人一首に登場する歌人で、閻魔法王に会ったエピソードで知られる小野篁(おののたかむら)を開祖とすることから、数ある京の寺の中でも珍しく、閻魔法王をご本尊としています。
平安京の中心道路であった朱雀大路(現在の千本通)頭に位置し、本尊として閻魔法王を祀ることから、一般に「千本ゑんま堂」の名で親しまれています。
ちなみに「千本」という地名については諸説あり、往時この地に桜が千本あったこと、精霊供養の「千本卒塔婆」に由来しているともいわれています。
また寺名については「諸人化導引接仏道」から。
「引接」とは「引導」と同義語で、仏が我々人間をあの世に導いてくれるという意味なのだとか。
平安前期の役人で、小倉百人一首の歌人としても知られる小野篁(802-853)を開基と伝わりますが、篁は現世と冥土を行き来して閻魔王とも交流したという伝承のある人物で、この世(現世)とあの世(冥土)とを往来する神通力を有していたとされ、昼は宮中に、夜は閻魔之廟に仕え閻魔大王の裁判の補佐したという伝説を持って伝えられています。
そして篁は現世浄化のため閻魔法王より、「塔婆(とうば)供養」と「迎え鐘」を用いて亡き先祖の魂を再びこの世へ迎える供養法「精霊迎えの法」を授かったといい、その根本道場として自ら閻魔法王の姿を刻み朱雀大路頭(現・千本通)に祠を建て安置したのがゑんま堂のはじまりだといいます。
ちなみにこの「精霊迎えの法」は「お精霊迎え」の風習となり、現在も続く京都のお盆(盂蘭盆会)の恒例行事となっており、現世浄化の根本道場として神仏や宗旨・宗派を問わない民間信仰が現在も続いています。
また当時身分の高い人以外の一般市民は死体を雨風にさらす「風葬」が一般的で、ゑんま堂の周辺一帯は野原が広がる北の外れの地で「蓮台野(れんだいの)」と呼ばれ、東山の鳥辺野(とりべの)、嵯峨の化野(あだしの)とともに平安京の「三大風葬地」の一つでした。
篁はこの蓮台野の入口に自ら刻んだ閻魔法王を、祠を建てて安置し、死者の魂を弔ったともいわれています。
そしてゑんま堂から蓮台野へ亡骸を葬った際に建立された石仏や卒塔婆が、この辺りには何本も無数にあったことから「千本」の地名が残ったともいわれています。
その後平安後期、1017(寛仁元年)(寛仁年間(1017~1021年)とも)、藤原道長の後援を得た比叡山の恵心僧都(源信)の弟弟子・定覚(じょうかく)がこの地を「諸人化導引接仏道」の道場とすべく「光明山歓喜院引接寺(いんじょうじ)」と命名し、仏教寺院として開山。
この点「引接寺」という正式名称より通称の「千本ゑんま堂」としてより親しまれているのは、前述のようにこの地が開山以前から人々にそう呼ばれて、神仏や宗旨宗派を越えた信仰を集めていたからでした。
鎌倉時代の1273年(文永10年)、明善律師によって中興の後、「応仁の乱」で本堂と閻魔法王は焼失しており、現在の閻魔法王は1488年(長享2年)、定勢作で新たなに造られたもの。
高さ2.4mで往古の裁判庁舎が象られているといい、堂内では閻魔法王の顔を拝むことができるほか、更に志納料を納めると閻魔法王の全体像と両脇に従える検事役の司命尊(左脇)と書記役の司録尊(司録)を見学することもできます。
嘘つきは舌を抜くと地獄の恐ろしさを語るその姿から地獄の支配者のように思われがちな閻魔法王ですが、実はとても身近な仏であり、怒りの表情はすべて人間を三悪道には行かせたくないためのものだといいます。
安土桃山時代には、京都に来た宣教師ルイス・フロイスの「日本史(Historia de Iapan)」中に、1565年当時の境内の様子が記されているほか、1574年(天正2年)に織田信長が上杉謙信に贈ったと伝えられ、京の名所と町衆の姿を描いた国宝「洛中洛外図屏風」の左隻右上にも千本ゑんま堂が描かれています。
行事としては2月の「強運節分会」における「ゑんまさまのこんにゃく煮き授与」、5月の「千本ゑんま堂狂言」、そして前述の小野篁の「精霊迎えの法」に由来する8月のお盆の恒例行事「お精霊迎え」での「迎え鐘」と「送り鐘」がよく知られています。
とりわけ毎年5/1~5/4に開催される「千本ゑんま堂大念仏狂言」は壬生念仏狂言、嵯峨念仏狂言とともに「京都三大念仏狂言」の一つで、唯一セリフのある有言劇として人気で、京都市無形民俗文化財にも指定されています。
また春は遅咲きの桜「普賢象桜(ふげんぞうざくら)」の名所としても有名です。