京都市上京区千本通上立売上ル、西陣織で有名な西陣地区の東方、千本今出川の交差点を北へ少し上がった千本通沿いの東側にある浄土宗の寺院。
正式名称は「石像寺」ですが、「釘抜地蔵(くぎぬきじぞう)」という通称で知られています。
寺伝によると平安前期の819年(弘仁10年)、真言宗の開祖として知られる弘法大師空海の開基で、地蔵堂の本尊・地蔵菩薩は大師が遣唐使として唐に渡った際に持ち帰った石を自ら刻んだものと伝わっています。
当初真言宗寺院でしたが、鎌倉時代に俊乗坊重源によって中興された際に浄土宗に改宗されたといいます。
その後再び荒廃し、江戸初期の1614年(慶長19年)に西蓮社厳誉上人によって再興されました。
弘法大師自刻の地蔵菩薩は、人々諸々の苦しみを苦しみを抜き取ってくれるお地蔵様との意味合いから「苦抜地蔵(くぬきじぞう)」と名づけられましたが、それが後年「釘抜地蔵(くぎぬきじぞう)」と呼ばれるようになったのには「くぬき」が訛って「くぎぬき」と呼ばれるようになったなど諸説あるといわれていますが、次の伝説に由来しているというのがもっとも有名です。
室町時代後期の1556年(弘治2年)頃、当時京都でも有数の大商人であった紀伊国屋道林という人物がいて、両手に原因不明の激しく痛を抱え、色々と治療法を施したもののまったく効果がなかったといいます。
そこで苦しみを抜いて下さる「苦抜地蔵」として霊験あらたかだと評判であった石像寺の地蔵菩薩に7日間の願掛けを行ったところ、満願の日の7日目の夜、夢に地蔵菩薩が現われ、苦しみの原因は病などではなく、前世において人を恨み、人形(ひとがた)の手に八寸釘を打ち込んで呪った事にあると告げたのです。
道林が救いを求めて祈ったため、地蔵菩薩の神通力によって呪いの人形から釘は抜き取られ、道林が夢から目覚めると両手の痛みはすっかり治っていました。
急いで苦抜地蔵へお参りに行くと、地蔵菩薩像の前には血に染まった2本の八寸釘があったといい、道林は地蔵菩薩の報恩に感謝し100日間のお礼参りをしたといい、その頃より「釘抜地蔵」と呼ばれる様になったのだといいます。
以来、心身の痛みを治してもらおうと願をかける人が数多く訪れるようになり、現在も地元民からは「釘抜地蔵さん」と呼ばれ親しまれています。
この点、見事に苦しみから解放されお礼参りに訪れた人々の奉納する絵馬が非常に独特で、四角い板に御礼の意味を込めた実物の2本の八寸釘と釘抜がくくりつけられています。
本尊のある地蔵堂の外壁にはこの絵馬が数え切れないほど隙間無くぎっしりと並べられており、ご利益の程が伺えます。
この他にも参道や境内の本堂の前にには大きな釘抜きのモニュメントがあるほか、境内の奥には空海の手掘りと伝わる京都三井の一つの井戸、また本堂(地蔵堂)の裏手には鎌倉期のもので、一つの石から掘り出した石仏としては日本最古のものといわれ重要文化財にも指定されている石造・阿弥陀三尊像、同じく重文指定の弥勒仏立像などもあります。
更にこの地は平安時代に歌人である藤原定家・家隆も住んだといわれ、藤原家隆、定家、定長の供養塔もあります。
苦しみを取り除いてくれるパワースポットとして近年注目の存在ですが、お年寄りが気軽に集ることのできる地域の憩いの場として、また何でも気軽に相談できる地元住民のコミュニティとしての役割も担っており、境内はいつもアットホームな雰囲気に包まれています。