京都市上京区浄福寺通一条上る笹屋町、繊維産業で繁栄してきた西陣の街中にある浄土宗寺院。
平安初期の延暦年間(782-806)に京都御所の鬼門除けの寺院として御所の東北に建立。
開祖は興福寺の僧・賢憬で、当初は天台宗の寺院で、本尊として三国伝来の釈迦如来像を安置し、「京都二十五大寺」の一つに数えらていたといいます。
その後度々の火災による焼失を経て、鎌倉時代の1276年(建治2年)に後宇多天皇の命によって一条村雲に再建し「村雲寺(むらくも)」とも呼ばれました。
室町時代の1525年(大永5年)に後柏原天皇より「念仏三昧堂」の勅号を賜って浄土宗を兼ねるようになり、後に知恩院の末寺となり、その後何度かの移転の後、江戸初期の1615年(元和元年)に現在地に移転しています。
境内は地域住民のコミュニティーとして解放され、近所の子供たちの格好の遊び場となっており、観光寺院ではない本来の京都らしさが感じられる寺院です。
現在の本堂は江戸中期の1733年(享保18年)の再建で、2つの建物からなる珍しい様式は、8代将軍・徳川吉宗によって奥行きが制限されたため、やむをえずこの方法で堂を建てたといい、この本堂ほか8棟が京都市指定有形文化財に指定されています。
その本堂にある穏やかな表情をした本尊・阿弥陀如来坐像は室町期に後奈良天皇から賜ったもので、金箔を施した厨子に安置されいます。
また1756年建立の釈迦堂には、鎌倉期のもので清凉寺式の三国伝来と伝わる「栴檀瑞像釈迦牟尼仏像(せんだんずいぞうしゃかむにぶつ)」が安置されていますが、こちらは生前の釈迦(しゃか)の姿を写したとされ985年に中国で作られた京都・清凉寺の釈迦如来立像(国宝)を、鎌倉時代に模刻したもので、長らく秘仏でしたが、毎月25日に御開帳(14:00~16:00)されているといいます。
更に方丈には室町期作の美しい阿弥陀如来立像があり、後ろの壁面には空を舞う飛天が描かれていることで知られています。
寺宝としては、鎌倉期の作で国の重要文化財に指定されている阿弥陀三尊二十五菩薩来迎図二幅のほか、室町期の作で同じく重要文化財の土佐光信筆十王像十幅などがあり、また境内の墓地には、光格天皇皇女霊妙心院はじめ著名な公卿、殿上人の墓が多いことでも有名です。
この他に境内の一番の見どころであるのが東側にある東門で、一部には秀吉が造営した聚楽第の一部分ではないかという説もあるそうですが、西陣の町屋が連なる浄福寺通沿いにあり、全体に朱が塗られていることから「赤門」と呼ばれ、寺の名も「赤門寺」と呼ばれて庶民に親しまれています。
ちなみに1788年(天明8年)に京都で歴史上最大の火災ともいわれる「天明の大火」が起こった際、火は浄福寺にも迫ったもののこのこの朱塗りの東門の手前で止まったといい、この時火を止めたのが、鞍馬から舞い降りてきた天狗で、赤門の上で巨大なうちわを扇いで火を消したという伝説が残されています。
そしてこの天狗伝説にちなんで、門の傍らにある「護法堂」には火を消したという天狗が祀られています。