京都市中京区新京極通四条上ル中之町、河原町にほど近く観光客や修学旅行生で賑わう京都有数の繁華街の一つである新京極商店街の四条通側の入口をくぐって北へすぐ西側にある時宗寺院で、現在は洛北鷹峯にある大本山・金蓮寺の塔頭寺院。
本尊は地蔵菩薩。
平安初期の808年(大同3年)の春、弘法大師空海によって創建されたのがはじまりで、空海が入唐帰朝の後に当院に留まり、十住心論を清書調巻されたことから「十住心院」と称し、また古くは「釈迦院」あるいは「敬禮寺(きょうらいじ)」または「清和院釈迦堂」「釈迦堂」などとも呼ばれたといいます。
空海による創建の約50年後、第55代・文徳天皇の皇后・藤原明子(ふじわらのあきらけいこ 829-900)は、天皇より深く愛されているものの子宝に恵まれなかったといいます。
そのような折に四条の寺院にご利益のある地蔵菩薩が安置されているとの噂を聞き、この地蔵に17日の願をかけて祈願したところ、最終の満願の日に懐妊の兆候があり、850年(嘉祥3年)3月25日、後の第56代・清和天皇となる惟仁親王(これひとしんのう 850-81)を出産したのでした。
そしてこのことにより、明子が「染殿皇后」と呼ばれていたことから、地蔵菩薩は「染殿地蔵尊」、寺院は「染殿院」と呼ばれるようになったといいます。
この点「染殿(そめどの)」とは、藤原明子の父親、すなわち「応天門の変」を機に古代からの名門である大伴氏が失脚するとともに、皇族以外の人臣として初めて摂政の座に就き、摂関政治を確立するとともに藤原北家全盛の礎を築いた太政大臣・藤原良房(ふじわらのよしふさ 804-72)の邸宅のことで、正親町の南、京極の西、現在の清和院門内の南、仙洞御所の北部にあったといい、明子もここに住んだことから「染殿后(そめどののきさき)」と呼ばれたのだといいます。
また第62代・村上天皇(むらかみてんのう 926-67)の第3皇子で一品式部卿まで昇進した為平親王(ためひらしんのう 952-1010)は四条中川(中川は御所より現在の寺町通に流れていた川)の付近の広く家造りをされ、当院もその敷地内に含まれて御願寺となり、このことから「染殿親王」「染殿式部卿」と称されたといいます。
更に第66代・一条天皇(いちじょうてんのう 980-1011)の時代の987年(永延元年)には東大寺の沙門奝然(ちょうねん 938-1016)が入宋帰朝し、赤栴檀(せんだん)の釈迦像を伝来し、嵯峨野の清凉寺に安置していますが、奝然はまた自ら丈3尺余りの釈迦像を1体を造って当院に奉納しており(現在は金蓮寺の霊宝庫に現存)、これによって四条京極の「釈迦堂」と呼ばれたといい、鎌倉期の国宝「一遍上人聖絵」第7巻には、時宗の開祖である一遍が遊行行脚の際に大津関寺(せきでら)から入洛し、四条京極の「釈迦堂」にて念仏賦算したと記載されているのは当院のことだといいます。
空海が創建したこともあって元々は真言宗でしたが、室町時代はどの寺社にも属さず時の移ろいとともに時の権力者によって護持伝来されてきたといいますが、室町第3代将軍・足利義満が1388年(嘉慶2年)12月22日に時宗大本山である錦綾山金蓮寺(こんれんじ)に寄進したのを受け、以降は時宗・金蓮寺の塔頭となりました。
「金蓮寺(こんれんじ)」は鎌倉後期の1311年(応長元年)、時宗十二派に数えられる時宗四条派の祖である真観(しんかん 1275-1341)が第93代・後伏見上皇(ごふしみてんのう 1288-1336)の女御・西園寺寧子(さいおんじねいし 1292-1357)(広義門院)の安産を願って霊験があり、後の北朝初代・光厳天皇(こうごんてんのう 1313-64)が誕生したことから、上皇から四条京極の地を賜り、現在の下御霊神社の北部にあった祇陀林寺を金蓮寺と改めたことに始まり、その所在地から「四条道場」とも呼ばれたといいます。
その後1356年(延元元年)にばさらと呼ばれる南北朝時代の美意識を持つ「婆沙羅大名」として有名な守護大名・佐々木道誉(ささきどうよ 1296-1373)が宅地を元弘以来の一族の戦死者を弔うために寄進し、1387年(元中4年/至徳4年)には足利義満が道誉が寄進した寺地について安堵の御教書を下して外護の手を差し伸べると、以降は大いに興隆し、中世においては連歌・立花など、芸能・文化の中心ともなったと伝えられています。
しかし江戸後期の18世紀末頃から寺域の切り売りがはじまり、売却地は飲食店や商店、見世物小屋などと化し、更に明治に入ると天皇の東京行幸によって意気消沈していた京都に活気を取り戻すべく一帯に新たに新京極通が整備され、東京の浅草、大阪の千日前と並ぶ日本三大盛り場の一つへと発展を遂げると、往時の姿はすっかり失われ、1928年(昭和3年)には現在の京都市北区鷹峯に移転。旧地には塔頭の染殿院のみが残されることとなり現在に至っています。
本尊・地蔵菩薩は弘法大師空海の作で、高さ約2mあまりの木造?形(すはだ)の立像で、50年に一度しか開帳しないため寺院の者でさえ見たことがないという秘仏。
そしてこの地蔵菩薩には染殿皇后の清和天皇の出産の逸話の他にも多くの伝説が残っており、その一つが「新京極の七不思議」の一つにも数えられている天龍寺の開山で西方寺(苔寺)を創建したことで知られる夢窓疎石(むそうそせき 1275-1351)が洛西の苔寺(西芳寺)の世界遺産にも指定されている有名な庭園を作庭した際に、当院の地蔵尊が一旅僧となって国師を助けたという言い伝えです。
国師が西芳精舎を創建し、泉水の美観を好んで築山の構えを営もうとすると、石は大きく重く少しも動かすことができないでいたところ、そこへ突然見知らぬ一人の僧侶が現れ、たった一人で自由に大石を動かし、国師の意の通りに庭園を作ったといいます。
国師は歓喜のあまり何かお礼をしようと思案しますが、その僧が袈裟を持たないことが分かったため、自分の袈裟を贈ったところ、錫杖を地に立てたまま消え失せ、幾日か経過し国師が四条の付近で托鉢をし、たまたま四条京極の染殿院に参ったところ、僧侶に贈ったはずの袈裟を地蔵菩薩が羽織り、手に錫杖がなかったといい、僧侶が地蔵の化身であったことを知って感激の涙を流したといわれています。
現在の堂宇は幕末の1864年(元治元年)に「禁門の変(蛤御門の変)」に伴って京都御所より南が大火に見舞われたいわゆる「どんど焼け」の際に建てられた仮堂だといい、本尊・地蔵菩薩を安置する本堂があるのみの小さな寺院ですが、新京極商店街の喧騒な通りから一歩境内に入れば、厳かで静かな雰囲気を味わうことができます。
そして染殿皇后が清和天皇を出産したという言い伝えから安産にご利益のある寺院として、現在も女性の参拝者が絶えないといいます。