平等寺(因幡薬師)のみどころ (Point in Check)
因幡堂縁起(重文)によると、997年(長徳3年)に中納言・橘行平が村上天皇の勅命により因幡国(現在の鳥取県)の一宮(宇部神社)に参拝した際に急病となり、病気平癒を神仏に祈り続けていた所、夢告により賀留津の海中から一体の薬師如来を引き揚げ、これを供養する仮堂を建てて安置したのがそのはじまり。
その後病気から回復し任を終えて帰京した行平を追って、1003年(長保5年)4月8日に薬師如来像が飛来。行平は自らの屋敷を改造して薬師如来を祀る堂とし「因幡堂」と名付けました。
この霊験話は京の人々に広く親しまれることとなり、歴代の天皇も厄年には勅使を派遣し祈祷を受けたといいます。
その後平安末期の1171年(承安元年)に高倉天皇より勅額を賜り、「平等寺」と名乗るようになりました。
建物は明治時代に入った1886年(明治19年)に再建されたものです。
「がん封じ」で有名、皇室との結びつきも
病を患った橘行平が夢で神託を得たのを起源として創建されたという由緒を持つことから、古くより病気を患った人々の拠り所として親しまれてきた。
また一条天皇の治世には8カ所の子院が建立され、のちに高倉天皇から「平等寺」の名を賜るなど、皇室との深い結びつきを持つ。
本尊・薬師如来立像は「日本三如来」の一つ
本堂に安置されている本尊・薬師如来立像は平安中期~後期に作られ、一説には仏師・康尚の作ともいわれている。
創建当初から度重なる火災を町衆の力によって免れ、「因幡薬師」として親しまれてきた。
重文に指定されているほか、嵯峨・清凉寺の釈迦如来、信濃・善光寺の阿弥陀如来と共に「日本三如来」の一つにも挙げられている。
コロの付いた厨子の中に安置され、頭に緩衝用の頭巾を被っている事でも有名。
仏像等は秘仏のため通常非公開だが、秋の特別公開などで公開されることも。
町衆の信仰を集めるいわゆる「町堂」の代表格
「町堂」とは、平安時代の京都で公式ではない、私的に建立されたお寺のこと。
まだ平城京に都が置かれていた当時、奈良の南都の仏教勢力が強大な力を持っていたことを嫌った桓武天皇により、平安京において官寺として創建された東寺と西寺以外の寺院を建立することは禁じられていた。
しかし貴族が私的に建立する持仏堂や「堂」と名乗る町堂(辻堂)の建立は認められており、因幡堂も六角堂(頂法寺)や革堂(行願寺)などと並んで創建された町堂の一つ。
毎月8日に「手作り市」を開催
薬師如来の縁日である毎月8日には、10:30より観音堂にて癌封じの薬師護摩祈祷が行われるほか、手作り市及び手作りコンサートも開催され50~60店ほどが出店する。