京都市下京区四条通高倉西入立売西町、京都有数のオフィス街である四条烏丸よりやや東の四条高倉にある江戸中期創業の老舗の百貨店。
元々は株式会社大丸として運営していましたが、現在はJ.フロントリテイリンググループ傘下の株式会社大丸松坂屋百貨店の百貨店の一つ。京都店のイメージキャラクターは丁稚奉公姿の「デッチー君」
「大丸」の創業者の下村彦右衛門正啓(しもむらひこえもんしょうけい 1688-1748)は江戸中期の1688年(元禄元年)、交通の要所だった京都の伏見京町北8丁目(現在の伏見区京町北八丁目77付近)に生まれ、幼い頃から利発で、何をさせても優れていたといいます。
父・下村三郎兵衛兼誠は摂津国茨木(現在の大阪府茨木市)の武将・中川氏の家臣の子孫で「大坂の陣」の後に商人になったといい、その第5子で三男でしたが跡継ぎとなり、1706年(宝永3年)、19歳の時に古着屋「大文字屋」の屋号を継いで行商を始めた後、1717年(享保2年)、29歳の時に京都・伏見の生誕の地に小さな店を開きますが、これが「大丸」の創業の年とされています。
その後、1726年(享保11年)11月に現在の心斎橋店がある大坂・島之内の木挽町北之丁(現在の中央区心斎橋筋一丁目)に進出し、八文字屋甚右衛門と共同出資の形で大阪店となる「松屋」を開店。
更に1728年(享保13年)11月には名古屋の本町四丁目に「名古屋店(だな)」を開いて呉服卸商を営み始め、この時に初めて「大丸屋」と改称されました。
そして1743年(寛保3年)には念願の江戸への進出も果たし、日本橋大伝馬町に「江戸店」を開きます。
これは当時の商人は「江戸店持京商人」といい、一大消費地である江戸に販売店を開き、最大の呉服の生産地である京都に仕入店を置くというのが商人の理想とされていためで、江戸進出に際しては、派手で非常に目立つ萌黄色(黄緑色)に大丸の商標マークを染め抜いた大きな風呂敷を大量に作成して商品を包んで運んだだといい、これが江戸の人々の間で抜群の宣伝効果を生み、寛政年間には大伝馬町の南側の裏通りが「大丸新道」と呼ばれるほどの大成功を収め、越後屋(三越)、白木屋(東急百貨店)と並ぶ江戸の三大呉服店と称される日本屈指の大店にまでに発展を遂げることとなります。
このように僅か30年ほどの間に京都・大阪・名古屋・江戸に大店を構えて商売を成功させ、また背は低くて頭が大きく、耳たぶが垂れ下がっていて福々しかったというその独特の風貌も手伝い、大丸創業者の下村彦右衛門正啓は幸福を招くとされる「福助人形伝説」のモデルとなったという説もあるといいます。
そして開業時に定められ、1736年(元文元年)には全店に社是として布告されたのが「先義後利」という経営理念で、この言葉は儒学の祖の一人とも言われる荀子(じゅんし B.C.298頃-B.C.235頃)の言葉である「義を先にして利を後にする者は栄える」から引用されたものだといい、「義」とは商売における正しい道や公共のために尽くす気持ちを意味し、企業の利益は客や社会への義を貫き、信頼を得ることでもたらされるという「お客さま第一主義」「社会貢献」という意味だといいます。
この点、正啓は毎年冬になると社会に利益を社会還元するため、施餓鬼(せがき)として貧しい人々に食べ物、衣服を施し、また人の集まる寺社に大丸マークの付いた灯籠や手ぬぐいを大量に寄付するなどの社会貢献、今で言う「ボランティア活動」を行っていたといい、そのように顧客を第一に考えれば、利益は後からでもついて来ると考えて経営を行っていたそうです。
そしてこうした社是が、経営の危機を救ったエピソードが1837年(天保8年)の「大塩平八郎の乱」におけるエピソードで、飢饉によって全国各地で百姓一揆が起こる中、大坂でも米不足に陥ったことから、大坂町奉行所の元与力・大塩平八郎らが子弟数人と蜂起し米の買い占めを図る豪商を襲ったというこの事件では、利を優先させた富豪や大商人はことごとく焼き討ちに遭ったそうですが、大丸は日頃から暴利をむさぼらずに徳義を重んじていたことがよく知られていたため大塩は「大丸は義商なり、犯すなかれ」と部下に命じ、その結果として焼き討ちを免れたと言い伝えられています。
その後、明治に入ると1908年(明治41年)11月に個人商店「大丸呉服店」に代わって東京を本店とする株式合資会社「大丸呉服店」を設立されますが、まもなく経営波乱が起こり、1910年(明治43年)秋には東京店や名古屋店をいったん閉鎖する一方で、呉服店から百貨店の形態へと転換を図る経営改革が進められて、京阪神を中心に百貨店を出店して近代化に成功。1920年(大正9年)には株式会社に改組し、更に1928年(昭和3年)には商号を株式会社大丸呉服店から「株式会社大丸」と改称されています。
戦後は日本の経済復興とともに業務内容を次第に拡大していき、1954年(昭和29年)10月に東京に再進出し東京駅八重洲口の駅ビルに東京店を開店したのを機に急成長を遂げ、1961年(昭和36年)には国内の小売業界で売上高ナンバーワンを達成し、名実ともに日本を代表する百貨店となります。
そして以後は国内の主要都市や海外にも進出し、スーパーマーケットやレストランなど多方面にわたって事業を展開するなどしましたが、この拡大・成長路線はバブル崩壊後に裏目となり業績は低迷することとなります。
しかし1997年(平成9年)に奥田務が社長に就任すると、他の百貨店よりも一足早く事業構造改革に乗り出し、百貨店業務の無駄を徹底的に省いて経営の効率化を図るとともに、国内の不採算店舗の閉鎖や海外店舗の全面撤退、人員削減などに取り組み、結果として改革は成功し収益力をは業界でもトップクラスにまで押し上げられました。
その後、百貨店業界を取り巻く経営環境の厳しさから従来の百貨店ビジネスを再構築することを目的として2007年(平成19年)9月には名古屋発祥の百貨店「松坂屋」と経営統合し共同持株会社「J・フロントリテイリング株式会社」へと移行することとなり、百貨店だけではない総合流通業グループに生まれ変わります。
更に2010年(平成22年)3月にはJ.フロントリテイリング傘下の百貨店事業会社を、旧松坂屋を存続会社に旧大丸を合併する形で「株式会社大丸松坂屋百貨店」と組織改革し、現在はJ・フロントリテイリンググループ傘下の百貨店となっています。
そして大丸の店舗は現在は創業地である近畿を中心に心斎橋店、梅田店、京都店、神戸店などを主力店舗に、東京店、札幌店、更には福岡天神店、下関大丸、鳥取大丸、高知大丸など全国各地に展開されています。
ちなみに店名の呼称については、現在は通常は「~てん」と発音されますが、近畿圏の各店舗に関しては以前から「~みせ」と発音するのが通例となっていますが、この「みせ」という読み方は大丸の社員が戦前に著した1900年頃の回顧録にあるルビにも「みせ」と振ってあるように元々は「みせ」と呼ぶのが一般的だったと推測されるといいます。
そして明治中期頃に東京上野の松坂屋を「松坂屋いとう呉服店(てん)」と名付けたことが斬新だと話題になり、「てん」の呼び方が近代的であるというイメージが生まれて全国に広がり現在の主流になった一方、古い歴史を大切にする京都を中心とした関西では「みせ」の読み方が一部で残ったものだと考えられているようです。
また商標の「大丸マーク」については京都五山の送り火の「大文字」にちなんで「大文字屋」と名付けられた創業時から使用しており、名古屋進出にあたって壁に掛かった柱暦に記されていた文字をヒントに「丸」の中に「大」の字を書き、これを商標とすることを決め、これが広く一般に「大丸」と呼ばれるようになったそうです。
「丸」は宇宙を表し、「大」の文字は「一」と「人」を組み合わせて成り立っていることから、「天下一の商人であれ」という創業者・彦右衛門正啓の志を示したものだといい、このマークには更に類似商標と区別するため、1913年(大正2年)に縁起のよい「七五三」にちなんで「一」の左端に3本、「人」の字の下端左に5本、右に7本の髭(ひげ)を付ける改定を行って商標登録、以来70年に渡って親しまれ、正式な社章は現在も「七五三ひげの大丸」なのだそうです。
その一方で1983年(昭和58年)4月には「よりよい生活をデザインする大丸」を目標に、ファッション性・積極性・創造性・自主性・人間性のイメージを築き上げる新しいシンボルマーク・ロゴタイプ・コーポレートカラーが設定されることとなり、このうち「DAIMARU」の文字の左にあるシンボルマークは大丸のシンボル「孔雀(ピーコック)」をデザイン化したもので、羽根を表す右上がりの斜線には、飛躍発展の思いが込められているといいます。
京都における「大丸」の歴史については、まず1717年(享保2年)に創業者の生地にて創業されましたが、その場所である伏見の京町北8丁目は京阪の丹波橋駅のやや北側で、京都の中心地ではなく郊外で、この伏見店が廃止された後の1729年(享保14年)には柳馬場姉小路の地に「仕れ店(だな)」が、更に1737年(元文2年)には東洞院船屋町(現在の烏丸御池交差点の北東)に「京都総本店(だな)」が新築されています。
ちなみに1863年(文久3年)に新選組が隊服である浅葱(あさぎ)色のだんだら模様に背中に「誠」の一文字が染め抜かれた揃いの割羽織を調達に訪れたのは、総本店とはまた別に設けられた「松原店」で、松原通の御幸町~寺町間の北側にあったといいます。
そして現在の四条烏丸の「大丸京都店」は1912年(明治45年)10月に市電の開通に合わせてデパートメントストア形式にて開店されたもの。
店舗面積は50,830平方メートルで、当時の店舗は鉄骨木造3階建で、2階には貴賓室の休憩場が設けられ、屋上には音楽堂として利用されたという円形の大塔屋があり、英国ヴィクトリア王朝のゴシック・リヴァイヴァル建築とインドの伝統的建築の要素を併せ持つ「インド・サラセン式」といわれた形式で建てられ、壮麗かつ異国情緒に溢れた外観の建物でしたが、1921年(大正10年)の火災で全焼してしまったといいます。
そしてその半年後に鉄筋コンクリート造3階建の店舗が再建された後、現在の建物は1926年(大正15年)に竣工された東館に始まり、以後折々に増床・改築を繰り返したもので、1928年(昭和3年)11月に竣工となった増築にあたってはアメリカ人建築家で大丸心斎橋店をはじめ日本で数多く洋風建築を手がけたウイリアム・メレル・ヴォーリズ(1880-1964)の設計にて6階建鉄筋コンクリート造の洋風建築へと改められ、この時に完成した四条通に面するファザード(建築物の正面デザイン)は、心斎橋店にも匹敵するほどの華やかさでだったと伝えらえています。
その後、1963年(昭和38年)6月に阪急の四条大宮から河原町までの地下延長線が開通すると、これに合わせて地下に連絡口を設けられて阪急烏丸駅と直結される形となり、更にこれと前後して1964年(昭和39年)にはヴォーリズの手によらない8階建の建物へと大規模な改修が実施され、四条通に面したファザードは一時オフィスビルのようなやや地味な形となります。
しかし創業285年の2002年(平成14年)には全館が改装された後、2014年(平成26年)10月には半世紀ぶりに外装のリニューアル工事が実施されることとなり、現存するヴォーリズのデザインモチーフを参照し下層階は大理石、中層階はレンガタイル、上層階は塗り壁の3層構成という伝統的な美しさを有するファザードを踏襲しつつ、最新の機能を併せ持つよう現代的に再構築された外壁へと一新されることとなりました。
この時に1963年の改修後も東側壁面にのみ残されていたヴォーリズ建築の意匠は姿を消しましたが、現在もヴォーリズ飾灯具やイタリア産の大理石の階段などが残されていて、当時の面影を伝えています。