日本での通信の最古の記録は、聖徳太子が隋の煬帝に送った手紙だといわれていて、その後、「大化の改新」の頃には通信施設が整備され、武士の時代になると早馬や飛脚といった通信機能が使われるようになったといわれています。
そして戦国期には情報の素早い伝達が戦における作戦の成否を分けるとして、また家名の存続をも左右するものとして重要視され、織田信長は「桶狭間の戦い」において圧倒的な兵力差のある中で敵の総大将・今川義元の所在を正確に掴むことでピンポイントに奇襲を仕掛けて奇跡的な勝利を挙げたことはあまりにも有名であり、また戦国時代を代表する名将・武田信玄は敵情視察や内部攪乱といった情報重視の戦術を採用し、侵略先の状況を偵察することで弱点を正確に把握し、調略によって敵を弱体化させた上で攻めるというまさに「戦わずして勝つ」という情報戦に長けた戦い方で知られています。
その後、江戸時代には飛脚による通信が活発化し、幕府の文書を運ぶ「継飛脚」や大名が地元と江戸との連絡をするための「大名飛脚」の他にも、一般人が利用する「町飛脚」があり、庶民の間でも頻繁に手紙のやり取りが行なわれていたといいます。
一方、近代郵便制度は「近代郵便の父」といわれたローランド・ヒル(1795-1879)の改革によって、1840年にイギリスで始められましたが、貴族などの一部の特権階級のみが優遇されていた郵便制度を、公私や身分、所得、組織、地域などに関係なく全ての人が低料金かつ平等に利用できる制度としたことに大きな意義がありました。
すなわちこの改革で誕生した近代郵便制度は「郵政資料館 研究紀要」によれば、[1]政府専掌による低額な全国均一料金、[2]国内全域の郵便集配ネットワーク、[3]切手などによる料金前納、そして[4]利用の平等性という4点を兼ね備えたものであると定義できるといいます。
「明治維新」を迎えた日本においても、江戸期の飛脚制度に代わる国営の郵便制度を作ることは明治政府の課題の一つであり、欧米にならって身分や肩書に関係なく、誰もが平等に使える制度としての郵便事業の創設が喫緊の課題でした。
そして「富国強兵」「殖産興業」「文明開化」などの日本が目指す近代化にとって郵便制度が必要不可欠と考えた前島密は、1870年(明治3年)に駅制改革の一環として「新式郵便」の創業を建議。
これを受けて明治新政府は1871年(明治4年)1月24日に郵便制度創業の太政官布告を出し、同年3月1日(新暦4月20日)に杉浦譲の下で東京~大阪の間を39時間で結ぶ官営の郵便業務の取り扱うため、東京・京都・大阪の3拠点に政府直轄の「郵便役所(現在の郵便局)」を設置、この日をもって日本の「郵便制度」の始まりとされています。
その後、3拠点でスタートした郵便制度は、早くも翌1872年(明治5年)年7月1日には北海道の一部を除きほぼ全国に拡大され「全国郵便網」が確立されるとともに、更に翌1873年(明治6年)4月1日には当初は距離に応じて料金が上がる仕組みであったものが、今日まで続く「全国均一料金制」に改められています。
この日本の郵便制度を築いた前島密(まえじまひそか 1835-1919)は、越後国頸城郡下池部村(新潟県上越市)の出身で、12歳で江戸に出て医学や蘭学、英語を学んだ後、1865年(慶応元年)に薩摩藩に英語教師として招かれ、翌1866年(慶応2年)に幕臣・前島家の養子となります。
明治維新後は新政府に出仕して役人となり、郵便創業を建議するとともに郵便制度を視察するためイギリスに派遣され、帰国後の1871年(明治4年)に初代駅逓頭となり、近代郵便制度の創設に着手すると、郵便切手や郵便ポストの設置、全国均一料金制度を採用するなど、近代的な郵便制度を整えました。
また「郵便」や「切手」「葉書」という名称も彼が考案したものであり、その他にも1877年(明治10年)の郵便業務の国際組織で現在は国連専門機関の一つとなっている「万国郵便連合(Union Postale Universelle UPU)」への加盟や、1875年(明治8年)に開始された庶民に倹約と貯蓄を勧めるための「郵便貯金」制度の創設なども彼の指導によるものだといい、11年間もの長きにわたって郵政の長を務め郵政事業の基礎を築いたことから「郵政の父」と呼ばれ、現在も1円切手の肖像として知られています。
その後、1881年(明治14年)の政変で大隈重信とともに下野すると立憲改進党の結成に参加したほか実業家としても活躍し、1882年(明治15年)には大隈重信の発意で生まれた東京専門学校(後の早稲田大学)の創立に参画しこれを助けるとともに後に校長にも就任。また関西鉄道会社の社長にも就任しています。
1888年(明治21年)に逓信大臣・榎本武揚の依頼で逓信次官として官界に復帰すると電話事業の創始にも尽力し、退官後は再び実業界で活躍したほか、1905年(明治38年)には貴族院議員にも選ばれています。
郵便制度の創設者としてよく知られている前島ですが、その他にも国字改良論者として漢字廃止を建議したほか、江戸遷都の建言や品川横浜間に1872年(明治5年)5月仮開業した鉄道敷設の計画案の作成、「郵便報知新聞(後の報知新聞)」を創刊するなど初期の新聞事業の育成、日本通運株式会社の前身となる陸運元会社の設立、日本郵船株式会社の前身である岩崎弥太郎の郵便汽船三菱会社を補助するなど画期的な海運政策の建議、1877年(明治10年)に東京上野で開催された第一回勧業博覧会に審査官長として参加、更には前述の東京専門学校(後の早稲田大学)の校長就任や電話義業の開始など、その功績は多岐にわたっています。
郵便制度は1885年(明治18年)の内閣制度の発足に伴って「逓信省(ていしんしょう)」が新設されると、長らく郵便・電信事業などを統轄し、大戦中の統廃合を経て、戦後の1949年(昭和24年)に郵政省と電気通信省に分割され廃止されるまでその管轄にありました。
この点、現在郵便のマークとして親しまれている「〒マーク」は1887年(明治20年)2月に制定されたものですが、その由来については諸説あるものの、逓信省(テイシンショウ)の頭文字「テ」をモチーフに図案化して「〒」マークが生み出されたといわれています。
そして1916年(大正5年)には「簡易保険」、1926年(大正15年)には「郵便年金」の取り扱いが開始され、以降郵便局は郵便・貯金・保険のいわゆる郵政三事業の業務を行う窓口として地域にとって欠かせない情報や物流、金融の拠点となり、全国において住民の生活を支え続けています。
「中京郵便局」は京都市中京区三条通東洞院東入る菱屋町にある郵便局で、前述の1871年(明治4年)3月1日(新暦4月20日)の郵便制度の発足時に東京および大阪と共に3つの拠点として設置された「郵便役所」を前身とする、日本で最も歴史のある郵便局の一つです。
当初は「西京郵便役所(さいきょうゆうびんやくしょ)」として開設され、1875年(明治8年)に「京都郵便局」となった後、1887年(明治20年)の京都電信局との合併時に「京都郵便電信局」、更に1903年(明治36年)の京都電話交換局との合併時に再び「京都郵便局」となります。
当局が設置された明治初期の京都では、東海道の起点である三条大橋のある三条通が最も栄えていた場所で、当局も三条通沿いに設けられ、いわゆる中央郵便局の役割を担っていましたが、鉄道の開設に伴って京都駅が開設されると京都の玄関口としての役割は徐々に京都駅へと移り、1949年(昭和24年)2月1日に京都駅のすぐ北西にある七条郵便局が「京都中央郵便局」に改称されると、これに合わせて大阪逓信局から分掌する管理事務が当局から京都中央郵便局へと移管されることとなり、これを受けて京都郵便局は現在の「中京郵便局」へと改称され現在に至っています。
中京郵便局の局舎は1902年(明治35年)8月、逓信省営繕課の吉井茂則、三橋四郎の設計、小泉鉄也の監督の下、安藤組の施工により建築されたもの。
赤れんが造り2階建の建物で、外壁のレンガの赤色と白い隅石のコントラストが独特の雰囲気を醸し出す「ネオルネサンス様式」の美しい外観が特徴です。
この点「ルネサンス様式」は15~17世紀初頭に、イタリアのフィレンツェで始まり広くヨーロッパに普及した建築・美術様式で、「ルネサンス」とは再生・復活を意味し、古典的様式である古代ギリシャ・ローマ様式の再現を目指したものです。
古代建築のオーダー(柱式)やシンメトリー(左右対称)な構成を重視し、外観は高く高くそびえる垂直を意識したゴシック様式に対し、直線的で水平線が強調された強固なデザイン、装飾は大理石の床に円柱やアーチ、絵画や彫刻で飾った壁やコーニス(蛇腹)を施した外壁などに特徴があります。
単なる模倣に終わるのではなく新しい建築様式も取り入れ、代表例としてはイタリアのフィレンツェ大聖堂、バチカンのサン・ピエトロ大聖堂、フランスのルーブル美術館、シャンボール城などが知られています。
そして「ネオルネサンス様式は」この15~17世紀はじめにかけて流行したルネサンス様式が、19世紀前半にヨーロッパで再び見直され、左右対称や水平線の強調などのルネサンス様式の特徴を基本としつつも、当時の荘厳な建築様式や各地の新しい建築方式を組み合わせたもので、日本を含む世界へ広がっていきました。
日本の近代建築史においても重要な位置を占める作品でもあるこの局舎でしたが、1973年(昭和48年)に機械化が進む現代の郵便業務に対応するため郵政省が改築計画を発表し、いったんは局舎の取り壊しが決定しますが、反対運動などもあって最終的には外壁を残したまま内部のみを新築するという建築手法「ファサード保存(外壁保存)」を用いて改築されることが決定。
1976年(昭和51年)3月から1978年(昭和53年)にかけ、旧庁舎の南面及び東西側面の一部の外観と屋根を保存する形で改築工事が行われました。
この歴史的建造物の保存を目的に昔の建物の雰囲気を残したまま中だけを改装するという手法は近年数多く用いられていますが、この中京郵便局の局舎が日本初の実施例であり、近代建築の「ファサード保存」の先駆的事例としてよく全国的にも有名で、日本の近代建築史においても重要な位置を占めるものとして1986年(昭和61年)に京都市登録有形文化財に登録されています。
また1998年(平成10年)には当時の建設省により優れた公共建築を選出する「公共建築百選」に京都コンサートホール、京都府京都文化博物館、国立京都国際会館とともに選定されています。
この点、建物が面する「三条通」は、鴨川に架かる三条大橋が江戸時代には東海道の西の起点とされるなど当時はもっとも栄えていた通りで、明治期に入ってからも商業・金融の中心地として集書院、郵便局、商店、銀行、保険会社などの建物が欧米から取り入れた洋風の建築技術を使って数多く建てられました。
1912年(明治45年)に四条通や烏丸通が拡幅されたのを受けて、メインストリートとしての地位は譲ることとなりましたが、それがかえって多くの歴史的建造物を残すことになり、現在も多くの洋風建築が明治期の近代建築として文化財等に指定・登録されています。
そして三条通の新町通から寺町通の一帯を中心にこれらの近代建築に加え、優れた現代建築や伝統的な町家など、各時代の雰囲気ある建物がお互いに影響し合いながら見事に混在しており、1985年(昭和60年)には京都市によって「三条通界わい景観整備地区」として指定され、景観の保護が図られており、当局の建物も界わい景観建造物には指定されてはいないものの、優れた景観の形成に一役買っています。