西山連峰

京都の街は京都盆地を中心に三方を山に囲まれているとよく言われますが、このうち西側にあるのが「西山連峰(にしやまれんぽう)」と呼ばれる山々です。

北から南へ順に見ていくと、まず京都の北西、一番北側に位置するのが愛宕山系の山々。このうち愛宕山は旧国の山城国と丹波国の国境にある山で、現在も京都市と亀岡市の市境にまたがっています。

標高924mはあり、北東にある比叡山とともに京都市街から見て目立つ存在。また古くより信仰の対象とされ、その山頂にある愛宕神社は全国の愛宕神社の総本山。火伏せ(火難除け)の神として京都市民の厚い信仰を集めています。

また同じく愛宕山系の高雄山には神護寺と西明寺、そして世界遺産の高山寺といった寺社があり、秋は紅葉の名所として知られています。

その南には清水寺や金閣寺とともに京都を代表する観光地の一つである嵐山があり、更に南へ進むと洛西屈指の古社として知られる松尾大社のある松尾山、更に京都市西京区から京都の南西に位置する長岡京市、向日市、そして大山崎町といった旧乙訓地域へと続いていきます。

乙訓地域には多くの古刹がありますが、中でも善峯寺、粟生光明寺、楊谷寺(柳谷観音)の3つは「西山三山」と称され、この3つの寺を結ぶ道は「西山古道」と呼ばれ古くより信仰の道として利用されてきたといいます。
戦後の交通機関の発達により忘れられた存在となっていましたが、近年の健康志向やハイキング人口の増加により復興・整備され人気を集めているといいます。

そして乙訓地域の一番南に位置するのが山崎の地。西山連峰の先端にあることからその名がついたと言われていて、大阪府との府境で鴨川と桂川、そして宇治川が合流して淀川となる三川合流でもあります。
そしてこの山崎の地にある天王山は、戦国時代に羽柴秀吉と明智光秀が天下分け目の「山崎の戦い」で天下をかけて戦った場所としてあまりに有名です。

この西山を代表するのが西山連峰の裾野に約3万ヘクタール広がっているといわれる竹林。嵯峨天皇のの治世(810-23)に長岡京市の海印寺寂照院の開祖・道雄が中国より孟宗竹を持ち帰ったのがはじまりといい、1000年以上の歴史を有する日本有数の竹の群生地で、特産品のたけのこは「京たけのこ」として全国的に知られています。

スポット名 エリア ポイント
NO IMAGE 朝日峯
(あさひみね)
高雄 愛宕山系、高雄山の北側にあり標高は688m
NO IMAGE 峰山 高雄 愛宕山系、高雄山の北東側にあり標高は537m
NO IMAGE 高雄山
(たかおさん)
高雄 愛宕山系、右京区梅ヶ畑にある標高428mの山
東南の山腹を流れる清滝川の渓谷に沿って神護寺と西明寺、そして世界遺産の高山寺の3つの有名な寺院があり、秋は紅葉の名所として名高い
京都市街からは周山街道(国道162号)が日本海へ向けて通っており、バスを使えばアクセスは容易
愛宕神社(愛宕山) 愛宕山
(あたごさん)
(愛宕神社)
嵐山・嵯峨野 京都市の北西、上嵯峨の北部、清滝川と桂川に挟まれた位置にある愛宕山系の中核をなす山
標高924mで山頂にある愛宕神社は全国の愛宕神社の総本山で火伏せ(火難除け)の神として知られている
毎年7/31の夜から8/1の未明にかけて行われる「千日詣り」では多くの登拝者が山を訪れるという
山頂へ向かう自動車道はなく、山の南側の清滝と西側の水尾、そして北西の櫁原(しきみがはら)などに登山口があるが、表参道であり勾配が比較的に緩やかな清滝ルートから登る参詣者が多い
平安京の都で最初に朝日を受けることから「朝日峰(あさひがみね)」の別名を持つ
NO IMAGE 小倉山
(おぐらやま)
嵐山・嵯峨野 桂川の西岸にそびえる嵐山と対峙する形で東岸の嵯峨野に位置、標高は296m
平安末期から鎌倉初期にかけて活躍した歌人・藤原定家が小倉山の山荘「時雨亭」で選んだとされる「小倉百人一首」はこの地で編纂されたことに由来している
麓にある常寂光寺と二尊院はともに紅葉の名所として有名で定家の「時雨亭跡」の遺構も残る
NO IMAGE 烏ヶ岳
(からすがたけ)
嵐山・嵯峨野 標高398m
NO IMAGE 嵐山
(あらしやま)
嵐山・嵯峨野 清水寺・金閣寺とともに京都を代表する観光地としてあまりに有名
三条通の西端、大堰川(桂川)の西岸に位置し、川にかかる渡月橋は嵐山を象徴するシンボル的存在
平安の頃より景勝地として知られ、その麓には皇族や貴族の別荘が多数あった場所で、世界遺産の天龍寺をはじめとする数多くの寺社も点在し、現在は国の史跡・名勝にも指定されている。また桜と紅葉の名所としても有名
嵐山の名の由来は元々の「荒樔山(あらすやま)」の名の転訛、あるいは紅葉などが風に舞い散る様子その名がついたなど諸説あり
標高は382m、その山頂には意外に知られていないが嵐山城跡の遺構が残る
嵐山城は室町時代に山城国半国(下五郡)の守護代を務めた細川氏の家臣・香西元長(?-1507)の居城で、その死後廃城となった
明治初期に国有林化され、古くより続く松や桜、モミジを中心とした嵐山らしい景観を維持するために様々な取り組みが行われている
NO IMAGE 松尾山
(まつおやま)
松尾・桂・西京極 標高223m、山を含む約12万坪という広大な敷地が松尾大社の境内で、麓に社殿が建つ
山は七谷に分かれ、その一つである大杉谷の頂上近くの斜面にある幅20m、高さ5mといわれる巨石が盤坐(いわくら)となっており、古くより信仰の対象だったといわれる
以前は登拝できなかったが、現在は登拝受付所に願い出た上で磐座登拝の「定」を守って参拝することができる
社殿が建てられたのも701年(大宝元年)で平安遷都以前、文武天皇の勅命で秦忌寸都理(はたのいみきとり)の勧請によるもので、その後も渡来系の秦氏の氏神として、平安遷都後は西の王城鎮護の社として、中世以降は酒の神として厚く信仰されている
社殿は桂川と四条通の交差する松尾橋の西詰、四条通の西端にあたり、東の八坂神社と対峙するような形で鎮座する
主祭神の大山咋神(おおやまぐいのかみ)は山の神で比叡山を守護する滋賀県大津市の日吉神社と同じ
また別名を別雷山(わけいかづちやま)というが、これは「山城国風土記」逸文で玉依日売(たまよりひめ・下鴨神社の祭神)が加茂川の川上から流れてきた丹塗矢を拾い上げ床に置いたところ懐妊し、賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと・上賀茂神社の祭神)を生んだという話と同様の話が「秦氏本系帳」にもあり、こちらでは松尾大明神たる大山咋神が丹塗矢に化身していたとされていることに関連しているものと思われる(話の類似性から上賀茂神社の祭神・賀茂別雷命の父親だとする説もある)
NO IMAGE 大枝山
(おおえやま)
(老ノ坂峠)
西山・乙訓 山城国と丹波国(京都市西京区と亀岡市)の国境にある標高480mの山
北側の山腹の標高230mの地点には老ノ坂峠(おいのさかとうげ)と呼ばれる峠があり、山陰道の出入口となる大江関が設けられていた
山陰道を通る場合この関を越えて京に別れを告げることになるため、古くより歌枕の地として知られていたという
また山崎・逢坂・和邇とともに平安京の四堺(しさかい)とされ、平安京内部で生じた穢れを排除し外部からの穢れが侵入するのを防ぐ場所だったことから、周辺は京都を追い出された盗賊の住処となったり、鬼が棲む場所として恐れられていたといい、峠の南には酒呑童子のものと伝えられる首塚を祀る首塚大明神がある
明治に入り1883年(明治16年)に「松風洞」、1933年(昭和8年)にはその北側に「和風洞」と呼ばれるトンネルが掘られ、更に1964年(昭和39年)には松風洞の位置に2車線の老ノ坂トンネルが開通し現在も国道9号として京都と山陰地方を結んでいる
その後1988年(昭和63年)の京都縦貫自動車道の開通に伴い新老ノ坂トンネルも掘られている
NO IMAGE 沓掛山
(くつかけやま)
(唐櫃越)
西山・乙訓 山陰道の本道である老ノ坂の北側にあり、京都市西京区の阪急の上桂駅から沓掛山(標高414m)、みずき山(標高430m)を通り亀岡市のJR馬堀駅へ抜ける「唐櫃越(からとごえ)」が一般的な登山ルート
古くから山城国と丹波国をつなぐ道として知られ、山陰道よりも距離が短い分険しい山道が続く
明智光秀は本能寺の変の際に軍を3つに分け老ノ坂 ・明智越 ・唐櫃越を通り京へ向かったという
NO IMAGE 大暑山
(おおしょやま)
西山・乙訓 小塩山の北にある標高568mの山で、京都縦貫道大原野ICの北西に登山道入口
眺望は良くないが三等三角点がある
NO IMAGE 小塩山
(おしおやま)
(淳和天皇陵)
西山・乙訓 西山連峰の主峰で標高642m
山頂まで舗装された京都府道141号小塩山大原野線が通っており、車両では頂上まで行くことはできないが徒歩では通行が可能
登山口は東の春日町と西の大原野森林公園にあり、東の登山口の麓には大原野神社や勝持寺(花の寺)、正法寺(石の寺)などの寺社や洛西ニュータウンなどがある
中腹に隠れた紅葉の名所として知られる金蔵寺、山頂付近には淳和天皇陵があるが三角点はない
また山頂付近にはFM局の送信所やNTTや関西電力などの無線中継局があり、多くの中継アンテナがあるため、遠くから見ても識別しやすい
3~4月に咲くユリ科の花、カタクリ(片栗)の群落があることでも知られている
NO IMAGE ポンポン山
(ぽんぽんやま)
西山・乙訓 京都市西京区と大阪府高槻市の境界に位置する標高678mの山で、西京区の山の中では最高峰
三角点のある山頂の脇まで東海自然歩道が伸び、歩きやすく道に迷う心配も少ないため、一年を通じてハイカーが多い
大阪側からは高槻市の神峰山口、京都側からは善峰寺からが主な登山口で、この間を縦走するのが一般的なコース
山頂は初日の出のスポットとしても知られ、山の南にある高槻市の本山寺では元日の未明に登山者に対して甘酒が振る舞われる
古くは「加茂勢山(かもせやま)」と呼ばれていたが、明治になり現在の名で呼ばれるようになったという
名前の由来は頂上に近づくにつれて足音がポンポンと響くことから愛称がつけられたという説のほか、本山寺(ほんざんじ)の転訛とする説も
NO IMAGE 釈迦岳
(しゃかだけ)
西山・乙訓 京都市西京区と大阪府三島郡島本町の境界にあるポンポン山の東に隣接する山で、標高631m
万葉の昔から歌枕として詠まれ、重要な用水として利用されていた水無瀬川(大阪府)の最上流地にありお釈迦様が守っていたと伝わるのが名前の由来で、万葉集にも数多くこの山が詠まれているという
善峯寺からのアクセスが最短ルートで、頂上からの展望は僅かながら開けている
天王山(山崎城跡) 天王山
(てんのうざん)
(山崎城跡)
西山・乙訓 西山山系の南端、大山崎町にある山で標高は270m、西側の山腹を摂津国(現在の大阪府)と山城国(現在の京都府)の国境を通る
桂川・宇治川・木津川が合流して淀川となる三川合流の地で古くから交通の要衝、そして軍事戦略上の要地として知られた場所で、歴史上で何度も争奪の舞台となっている
中でも1582年(天正10年)の本能寺の変の直後に秀吉と明智光秀の間で天下分け目の「山崎の戦い」が行われた場所としてあまりに有名で、現在でもスポーツや政治などの重大局面に「天王山」の比喩がよく使われる
JR山崎駅側の登山口に宝積寺(宝寺)、アサヒビール大山崎山荘美術館、阪急西山天王山駅側の登山口に小倉神社、山頂付近に酒解神社があり、天王山の名はこのうち酒解神社の旧名「山崎天王社」に由来しているという

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