京都府南丹市園部町美園町、天神山の山麓に鎮座する日本最古の天満宮。
そもそも園部の地は菅原道真(すがわらのみちざね 845-903)の領地で邸宅があった場所であることから、何度も訪れていた場所でした。
平安中期の901年(延喜元年)、菅原道真が右大臣の時、藤原時平(ふじわらのときひら 871-909)らの策略によって大宰権師として九州太宰府に左遷されることが決まると、当社宮司家の初祖で、歌舞伎の三大名作の一つ「菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)」に登場することでも名高い園部の代官・武部源蔵(たけべげんぞう)は道真の八男・慶能(けいのう)(後の慶能法師)の養育の内命を受けます。
そして小麦山(小向山)にあった邸内にその無事を祈って密かに菅原道真の木像を刻み、生祠(いきほこら)を建てて祭祀したのが当社の創建であり、このことから「生身天満宮」と称されるようになり、全国に約12000社ある天満宮の中で道真が「存命中」に祀られたのはこの天満宮だけとされていて、このため「日本最古の天満宮」であるといわれています(この他に「最古」や「最初」を名乗る天満宮としては京都では文子天満宮、水火天満宮、吉祥院天満宮、京都以外では山口県の防府天満宮などがある)。
その後903年(延喜3年)に道真が亡くなると生祠は霊廟に改められ、更に956年(天暦9年)には神社として祭祀を行い、現在に至るまで武部源蔵の子孫・武部氏が宮司を務めています。
江戸時代に入ると、園部藩の初代藩主・小出吉親(こいでよしちか 1590-1668)が小麦山、現在の園部公園に園部陣屋を造営したのを受けて、1653年(承応2年)に現在地に遷座しました。
その後も園部藩主からの篤い信仰を集め、江戸中期の1750年(寛延3年)には第5代園部藩主・小出英智の命令で神幸行列が復興。
現在も毎年10月第3日曜日に行われ、更にその前夜に行われる境内のお社をめぐる「お宮巡り」の儀式も受け継がれているといいます。
現在の「本殿」は棟札より1653年(承応2年)の遷座時に建立されたとみられ、「拝殿」は棟札より1831年(天保2年)、更に本殿と繋がっている手習鑑の遺業の建物と伝えられる「回廊」は幕末から明治期に建立されたとされ、これらは連続した屋根を持つ一群として神社建築の空間を考察する上でも重要とされ、本殿(附 棟札3枚)・回廊が京都府指定文化財、拝殿が京都府登録文化財に指定されています。
境内は参道南側に「梅園」が広がり、一方参道沿いから北側にかけては杉の御神木が立ち並ぶ鎮守の森が山頂へと続くなど良好な景観が形成されていて、豊かな自然に囲まれた生身天満宮境内全域と天神山山頂へ続く山間部は「生身天満宮文化財環境保全地区」として「文化財環境保全地区」にも認定されています。
春の梅、秋の紅葉、冬の雪景色と四季折々の景観が楽しめますが、中でも京丹波有数の「梅」の名所として知られ、早咲きの白梅や遅咲きの紅梅、八重一重など様々な紅白の梅およそ100本が順々に咲き、毎年2月初旬~3月下旬にかけて長期間にわたって楽しめ、更に毎年3月25日頃の日曜日には梅の花を愛でた菅原道真を偲ぶ「梅花祭」も行われています。
御神徳は学問の神様として「合格祈願・学業成就」のほか、「雷除け」「火災除け」「健康長寿」など幅広く、様々なお守りが授与されていますが、中でも境内で生産された梅を使った「合格梅」や「とんぼ玉合格お守り」など合格祈願の授与品は多彩で、受験シーズンには多くの参拝客で賑います。
その他にも天まで晴れる人生を送れるよう願いを込めたという就職や転職にご利益がある仕事お守り「天 晴れる」が人気なほか、境内社の「厳島神社」は女の子がお参りすると美人になると伝わり、地元では人気を集めているといいます。