京都府相楽郡南山城村野殿寺ノ元、京都府最南端で唯一の村でもある南山城村の北東、標高500m前後の童仙房高原の頂上部に位置し、東は滋賀県の信楽町に接する野殿地区の中心部にある真言宗智山派の寺院。
山号は千宝山で、本尊は千体阿弥陀如来像。
この点、南山城村の南端・高尾地区に隣接する奈良市柳生地区は、剣豪として知られ将軍家の師範となった有名な柳生宗矩を初代藩主とする柳生氏の拠点だった地で、現在の南山城村を構成している集落の大半は江戸初期からその柳生藩領に組み込まれていました。
このうち南山城村の北、標高約500mの高原に位置する童仙房・野殿地区のうちの「童仙房」という地域は江戸時代は柳生藩と現在の三重県伊賀市を拠点とする藤堂藩が国境論争を繰り広げた地域で、江戸時代を通じ無住でしたが、その後、明治以降に禄を失った氏族の救済のために農地開拓が行われ始めたのがきっかけで開発が進み、1871年(明治4年)に136戸が移住し、水田22町歩、畑地が茶園60町歩、雑畑55町歩の計115町歩などを含め合計140町歩が開拓され、同時に寺院や神社をはじめ、学校、郵便局、警察署などが着々と整備されたといいます。
一方「野殿」という地域は明治期になって開拓された童仙房と違ってその歴史は古く、江戸時代に柳生藩の江戸詰家老職を務めていた野殿氏が在地領主であったことに由来した地名となっています。
江戸時代は寛永年間(1624-44)から野殿村として柳生藩の管轄下にあり、野殿氏が代々居住していたことから、藩の役人や隣国の代官らの往来も多く、また甲賀の多羅尾から野殿を経て大河原へ至るルートは「野殿越え」と称され、信楽焼はこのルートを経て伏見や大阪方面へ出荷されており、その中継地・交通の要衝として繁栄したといいます。
福常寺の創建の詳しい経緯は不明ですが、元々は木津川市加茂町にある天台宗・常念寺の末寺で、江戸中期に春光寺とともに真言宗へ宗旨替えしたと伝えられています。
そして創建の時期についても不明なものの、暦応元年(1338年)の墨書がある五部大乗経が伝わっており、また境内の宝篋印塔に永禄2年(1559年)の銘があることから、その歴史は中世まで遡ることができ、遅くとも室町時代には存在していたと考えられています。
また現在の野殿区公民館の場所には庫裡があったといいますが、明治初年に消失しており、現在は無住の寺院で、同じ南山城村の北大河原にある春光寺の住職が兼務しています。
本堂に本尊・千体阿弥陀如来の他、不動明王、子安地蔵を安置し、このうち千体阿弥陀如来像は江戸初期の1664年(寛文4年)5月26日に柳生宗矩の子で柳生芳徳寺の開山でもある義仙によって寄進されたもので、堂内は年数回の法要の際に一般公開されるといいます。
この他にも本堂右の奥にある大きな檜(ヒノキ)は樹高20m、幹周5.3m、この地域を代表する銘木で「京都の自然二百選」にも選定されています。