京都府相楽郡和束町南下河原、京都府の南端、奈良県との県境近くに位置し、宇治茶の産地の一つとして知られる和束町の中心部、和束町役場や和束山の家などの近くにある臨済宗永源寺派の禅宗寺院。
山号は瑞泉山(ずいせんざん)、本尊は阿弥陀如来坐像。
奈良時代の744年(天平16年)、奈良の大仏で有名な東大寺を建立したことで知られる第45代・聖武天皇(しょうむてんのう 701-56)の第2皇子・安積親王(あさかしんのう 728-44)の菩提を弔うため、寺の背後にある仏法寺山に行基(ぎょうき 668-749)を開山として建立したのがはじまりと伝えられています。
この点、安積親王は聖武天皇と夫人・県犬養広刀自(あがたのいぬかいのひろとじ ?-762)の皇子で、744年(天平16年)閏1月に聖武天皇の難波行幸に従ったものの、脚気のために桜井頓宮(東大阪市六万寺町付近)から恭仁京に引き返し、2日後に亡くなりました。
聖武天皇には中臣鎌足の次男で当時の有力者であった藤原不比等(ふじわらのふひと 659-720)の女である正妻・藤原光明子(光明皇后 701-60)との間に阿倍内親王(のちの孝謙天皇 718-70)と基親王(もといしんのう 727-728)が誕生しましたが、基親王は幼くして夭折しており、安積親王は唯一の男子でした。
しかし738年(天平10年)には藤原氏の血をひく阿倍内親王が異例ともいえる女性皇太子に立てられ、後に女性天皇として第46代・孝謙天皇、重祚して第48代・称徳天皇となっており、安積親王が亡くなったのはその数年後ですが、唯一の男子であったため藤原氏による暗殺説も唱えられています。
この安積親王の陵墓は正法寺より北西へ約600m、和束川に架かる白栖橋の更に北にある茶畑に囲まれた小高い丘の上にあります。
創建当初は「仏法寺」と称し、俗に「幡寺」と呼ばれていたといい、寺領も多く大伽藍を構えていたといいますが、中世の南北朝の兵火によって荒廃。
その後、江戸初期の1644年(寛永21年)に永源寺(えいげんじ)(滋賀県東近江市)の住持・如雪文巌(にょせつもんがん 1601-71)を中興開山に迎え、山麓の現在地に古堂を移設して再建。
更に第108代・後水尾上皇(ごみずのおじょうこう 1596-1680)やその皇后で江戸2代将軍・徳川秀忠の娘でもある東福門院(とうふくもんいん 1607-78)の帰依を得て寺観を整え「正法寺」と改めたといいます。
現在は紅葉の隠れた名所として有名で、境内、特に参道の周囲には滋賀県にある臨済宗永源寺派の大本山・永源寺から移植されたという多くのヤマモミジが植えられていて、秋には美しい紅葉が楽しめるほか、茶どころである和束町ならではの風景として紅葉や銀杏越しに釜塚の茶畑の眺めを楽しむこともできます。