京都府相楽郡和束町釜塚、京都府の南端、奈良県との県境近くに位置し、宇治茶の産地の一つとして知られる和束町にある茶畑。
そもそも「お茶」は奈良・平安時代に中国から輸入されて貴族階級の飲み物となっていましたが、その後、鎌倉初期に「喫茶養生記」を著した臨済宗の祖・栄西(えいさい 1141-1215)が宋から持ち帰ったお茶の種を元に京都高雄の栂尾(とがのお)、続いて南山城の宇治にて栽培が始まったことで一般に広まり、喫茶の習慣が生まれ、やがて千利休などにより茶の湯という日本独自の文化が形作られていくこととなります。
このうち宇治にて栽培された「宇治茶」については、その発祥は鎌倉初期の1207年(建永2年/承元元年)と伝えられ、宇治の里人たちが茶の種を植える方法に苦慮していたところ、当時の茶文化の主流とされていた栂尾・高山寺の明恵上人が偶然通りかかり、畑に馬を乗り入れてできた蹄の址に茶の種を蒔くように教えたのがはじまりだといわれています。
この点、1926年(大正15年)には明恵上人への感謝と功績を顕彰するため「栂山の尾上の茶の木分け植えて、迹ぞ生ふべし駒の足影」の上人の歌が刻まれた「駒蹄影園址碑(こまのあしかげえんあとひ)」が黄檗の萬福寺の門前に宇治郡茶業組合によって建立されています。
そして13世紀半ばに第88代・後嵯峨天皇(ごさがてんのう 1220-72)が宇治を訪れたのを機に平等院に小松茶園、木幡に西浦茶園が開かれ、この地で本格的な茶の栽培が始まったといわれていますが、南北朝前期から中期にかけては栂尾で生産された茶が「本茶」とされ、宇治などのそれ以外の茶は「非茶」とされ栂尾茶に次ぐ存在にすぎなかったといいます。
しかし南北朝時代を終わらせた第3代将軍・足利義満の時代となると、義満は宇治茶のその香ばしさと美味しさを称賛し、その庇護の下に大いなる発展の時代を迎え、一条兼良が記した「尺素往来」には「宇治は当代近来の御賞翫」、また1564年(永禄7年)には「分類草人木」に「宇治七名園」の存在も記されています。
戦国時代には茶の湯を嗜んだ織田信長や豊臣秀吉らの支援を受けて更なる発展を見せ、また天下一の茶人としての地位を固めた千利休は上林氏と協力して宇治茶業界の統制を図るとともに宇治茶の地位向上に尽力したことで、安土桃山時代には宇治茶は天下一の茶としての地位を固め、最盛期といえる繁栄を続けました。
この点、この当時のお茶といえば大きく2つに大別されていて、まず覆いをした茶園の若芽を蒸して揉まずに乾燥しさせたいわゆる碾茶(てんちゃ)を原料に臼で挽いて粉末にした「抹茶(まっちゃ)」は、茶の湯にも用いられるなど主に富裕層が楽しむ高級茶でした。
その一方、庶民が飲むお茶といえば茶葉を湯に浸して煮出すことで成分を抽出する「煎じ茶(煎茶)」でしたが、それまでの煎茶は文字通りの茶色、色が赤黒く味も粗末なものだったといいます。
そんな中で江戸中期の1738年(元文3年)、当時の宇治で取り扱われていた抹茶の製法にヒントを得て、新芽の茶葉を蒸した後に「焙炉(ほいろ)」と呼ばれる器具の上で手揉みし乾燥させるという「青製煎茶製法(あおせいせんちゃせいほう)」と呼ばれる製茶法を15年もの歳月をかけて考案、これによって薄緑色の良質の煎茶を得ることに成功したのが、京都南部の宇治田原町の出身で「緑茶の祖」「煎茶の祖」と呼ばれる永谷宗円(ながたにそうえん 1681-1778)です。
この点、宇治においては江戸中期以降に茶園に対し高い年貢が課されるようになり、また大衆にも日常的に茶を飲む習慣が広まったことで他の地域にも茶の産地が広がるなどしたため、宇治茶は一時斜陽の時代を迎えていましたが、宗円が江戸に赴いて日本橋の茶商・山本嘉兵衛(かへえ)(のちの山本山)や、煎茶の中興の祖ともいわれ黄檗宗の僧であった売茶翁(ばいさおう/まいさおう)こと高遊外(こうゆうがい 1675-1763)によって江戸で大々的に販売されると、煎茶の産地として復活を果たします。
更に1834年(天保5年)には山本嘉兵衛により宇治で「玉露」の製法も生み出されます。
「玉露」とは煎茶と同様の茶木から産出されますが、栽培方法に違いがあり、新芽の摘み取り2週間前頃に茶園に覆いをかけて日光を遮り「覆下園(おいしたえん)」とすることで光合成を抑え、渋み成分のカテキンを抑え旨味成分であるテアニンが増えることで、香り高く旨味のある極上の一杯を楽しむことができるように開発されたもので、緑茶の最高級品に位置づけられています。
明治期に入り開国と同時に煎茶が主にアメリカ向けの重要な輸出品となると、品薄となり価格の高騰を招いたことから煎茶の栽培は全国に広がりますが、この頃から京都府内でも宇治田原や和束といった現在の主要産地での茶栽培が盛んになったといいます。
現在も「宇治茶」はブランド茶の一つとして全国に販売されていて、また茶師上林氏の系譜を継ぐ上林春松本店(宇治市)や辻利(宇治市)、伊藤久右衛門(宇治市)、そして「伊右衛門」で知られる福寿園(木津川市)など、京都府南部に本社を置く製茶・茶販売業者も数多く見られます。
もっとも「宇治茶」の名前から一般的に「宇治市」がイメージされているものの、現在は宇治市の茶園面積はわずか80haほどで、京都府内における主な産地は、相楽郡和束町や南山城村、綴喜郡宇治田原町などの周辺地域となっています。
ただし宇治市は茶業の本社が多く集まっているほか、世界遺産・平等院を中心に観光地として著名な宇治の宇治橋通りや平等院表参道などには茶店や「宇治茶」に関連した土産物を売るお店が軒を連ねており、宇治茶のPRに最も貢献している存在となっています。
近年はこれに加えて、今に伝わる美しい茶畑の景観や茶問屋の街並みなど、茶産地であること自体を「観光資源」として生かす動きが活発となっていて、2017年(平成29年)には官民連携の観光地経営組織(DMO)として「お茶の京都DMO」が発足し「お茶の京都博」が開催され、京都市、海の京都、森の京都とともに新たな京都観光の役割を担う存在となっています。
またそれと前後して2015年(平成27年)には、茶の湯に使用される「抹茶」、今日広く飲まれている「煎茶」、高級茶として世界的に広く知られる「玉露」を生み出し、約800年間にわたり最高級の多種多様なお茶を作り続け、日本の特徴的文化である茶道など、我が国の喫茶文化の展開を生産、製茶面からリードし、発展を遂げてきた歴史と、その発展段階毎の景観を残しつつ今に伝える独特で美しい茶畑、茶問屋、茶まつりなどの代表例が優良な状態で揃って残っている唯一の場所であるとの評価を受け、京都府南部地域が「日本茶800年の歴史散歩」として文化庁認定の「日本遺産」に選ばれています。
このうち和束町は清々しい空気に加え冷涼な気候で昼夜の寒暖差が大きく、周囲の山々から和束川へ向けて流れ出る小さな川と豊かな森林の生み出す霧が茶葉を包むようにして遮光を助けることで茶の旨みが最大限に引き出されるなど、美味しい茶を育てる環境に恵まれた地域で、古くから高級煎茶が栽培されてきましたが、現在は宇治茶として出回っている茶の約4割を生産している全国でもトップクラスの生産量を誇る一大生産地にもなっています。
加えて町の中央を貫流する和束川に沿って連なる標高約300mの山々の斜面に切り拓かれた鮮やかな緑色の茶畑が一面に広がる景観は、息を飲むような美しさで、別名「茶源郷」とも呼ばれ、鎌倉時代から今日まで茶葉の生産を生業としてきた和束の人々に脈々と受け継がれてきた暮らしの中に息づく「生業の景観」として2008年(平成20年)に京都府景観資産登録の第1号に指定されるとともに、京都府選定文化的景観に選定されています。
近年はこの和束町の美しい茶畑の景観を見るため、国内外を問わず多くの観光客が訪れるようになり、観光バスでのツアーも組まれるなど大変人気を集めています。
この点、和束町の茶畑は町の面積の約1割、東京ドーム約140個分の広さがあるといい、町の至る所で見ることができますが、いくつかのビューポイントがあり、有名なのが天空へと向かって茶畑の緑の稜線が続く「石寺の茶畑」「白栖・撰腹(松尾)の茶畑」「釜塚の茶畑」、そして円形茶園が印象的な「原山の茶畑」で、いずれも京都府景観資産登録の第1号に認定されています。
このうち「釜塚の茶畑」は府道5号線が中央を通り和束町役場や観光案内所などもある和束町の中心部から東に目を向けると眺めることができる茶畑で、古い歴史を持ち、全てが人の手によって開墾されて拡げられたものだと伝えられています。
和束町の中心部に近いことから茶畑と民家が隣合わせにある独特の景観が特徴で、また安積親王墓や、天空カフェ、また秋には正法寺から大きな銀杏の木越しに眺めることもでき、集落背後の急傾斜の山頂まで茶畑が続く独特の景観を見ることができます。