京都府木津川市木津宮ノ裏、JR木津駅を北へ約10分歩いた木津川の畔にある西山浄土宗寺院。
山号は心道山、本尊は阿弥陀如来。
平安中期の1001年(長保3年)、「往生要集」を著した天台宗の僧・恵心僧都(源信)により創建。
本尊の「阿弥陀如来坐像」は平安末期の武将・平重衡(たいらのしげひら 1157-85)が処刑される前に木津川河原で最後に拝んだ引導仏と伝えられています。
平重衡は平安末期に平家一門を繁栄させた平清盛の五男。
文武兼備の人物であったといい、蔵人頭として朝儀・公事をよく処理する一方、1180年(治承4年)5月に以仁王の綸旨を受けて挙兵した源頼政を「宇治川の戦い」で破る軍功を立てた後、次いで12月に平家に従わない勢力の拠点であった奈良(南都)の仏教寺院を総大将として攻撃しますが、民家に放火したのが原因で東大寺や興福寺が全焼、東大寺の大仏の首も焼け落ち、そのため仏敵として激しい非難の的となります。
その後も源平合戦においては「墨俣川の戦い」や「水島の戦い」で勝利するなどの活躍を見せますが、1184年(寿永3年)2月の「一ノ谷の戦い」で源範頼・義経に敗れて捕虜となり鎌倉に送られます。
そして重衡と引見した源頼朝はその器量と潔さに感銘を受け、鎌倉にいる間は最大限の配慮を持ってもてなしたと言われています。
しかし平家滅亡後に焼き討ちにあった東大寺・興福寺の南都の衆徒の強い要求によって奈良に送られることとなり、1185年(文治元年)6月23日に木津川の河原で斬首されました。「平家物語」においては囚われの身となった重衡が平家滅亡を象徴する悲運の武将として描かれています。
その後、重衡が最後に拝んだ引導仏と伝えられる本尊・阿弥陀如来を祀る「本堂」は、重衡の死を哀れんだ人々によって「哀堂(あわれんどう)」と呼ばれるようになり、また200~300年後には重衡の供養塔と伝わる「十三重石塔」も建立されています。
現在は門前右手に春になると見事な花を咲かせる桜の木があり、桜の名所として知られています。
また安福寺の境内にほど近い、JR奈良線を挟んで西側の木津川堤防の脇には、重衡の首を洗った池と伝わる「首洗池」と呼ばれる池があるほか、そのそばには「不成柿(ならずのかき)」と呼ばれる柿の木があります。
首を跳ねられる前にこの世の名残に柿を食べた重衡を哀れに思った里人がその柿の種を植えたところ、実の成らない柿の木となったためいつの頃からかそう呼ばれるようになったといいますが、現在は木が代替わりしており、秋になると沢山の実が成るといいます。