京都市左京区上高野東山、八瀬地区の入口(南端)に近い高野川左岸、八瀬比叡山口駅から見て対岸に位置する寺院。
本尊は阿弥陀如来で、寺名は庭内に自生する苔の一種がまぶしいほどに瑠璃色(やや紫みを帯びた鮮やかな青)に輝いたことが由来しているといいます。
岐阜県岐阜市に本坊を置く浄土真宗寺院「無量寿山光明寺(むりょうじゅさんこうみょうじ)」の支院。
「光明寺」は岐阜市に本坊を置く浄土真宗の寺院。
その歴史は古く、平安中期の「延喜式神名帳」にも記載が見られる滋賀県長浜市木之本町に鎮座する意富布良(大洞)神社(おほふらじんじゃ)に由緒を持つといいます。
神社はいつしか神仏一体の神宮寺となりますが、その後室町時代に京都の本願寺第8世・蓮如(れんにょ)の教化により神社と寺院が分離され、寺院の方が光明寺の祖となる「近江祖坊」となった後、時を経て岐阜に光明寺岐阜本坊、そして京都に光明寺京都本院・瑠璃光院として移転され、現在では全国各地に別院が存在しているといいます。
瑠璃光院の地は元々は現在の叡山電鉄叡山本線や叡山ケーブルを開設したことで知られる電力会社・京都電燈(きょうとでんとう)などの創業者として知られ、明治から大正期にかけて実業家および政治家としても活躍した田中源太郎(たなかげんたろう 1853-1922)が所有し別荘を構えていた場所で、本願寺歴代門跡もしばしば訪れたと記録に残されているといい、また当地に建てられ明治の元勲で太政大臣として活躍した公卿・三条実美(さんじょうさねとみ 1837-91)が「喜鶴亭(きかくてい)」と命名した庵は現在も茶室名および寺に現存する直筆の命名額にその名をとどめています。
田中の没後には京都電燈重役の個人別荘となりますが、京都電燈が1942年(昭和17年)に戦時統制によって解散されると、同年設立され鉄道・軌道事業を引き継いだ京福電気鉄道の所有となり、高級料理旅館「喜鶴亭」として営業を続けていましたが、その後、料理旅館の廃業に伴って光明寺が買収し、本堂を設置し、寺宝を移すなどして2005年(平成17年)に寺院に改められ現在に至っています。
1万2000坪の敷地内にのべ240坪の数寄屋造りの建物と東山の大自然を借景とした日本庭園が見られますが、これらは大正末期から昭和にかけて造営されたもので、建物は京数寄屋造りの名人と称された中村外二(なかむらそとじ)、また庭園の方は佐野藤右衛門(さのとうえもん)一統の作と伝わります。
その後現在に至るまで日本情緒あふれる名建築および美しい苔に覆われた名庭として多くの人々に親しまれ、近年では囲碁の本因坊や将棋の名人戦の対戦場となったことなどが知られていて、現在は通常非公開の寺院ですが、文化財の保護と公益を目的に新緑と紅葉が見頃となる春の4~6月と秋の10~12月の年2回にわたって一般公開も行われるようになり、紅葉の名所として知られるように。
「瑠璃の庭」「臥龍(がりょう)の庭」「山露路(やまろじ)の庭」の3つの庭はそれぞれ異なる趣が楽しめますが、中でも書院2階の机の天板に庭の楓(カエデ)が反射して映り込む光景が絶景としてSNSなどで話題となり、近年とりわけ人気を集めるようになっています。
また書院1階では特等席でお抹茶をいただきながら「瑠璃の庭」を鑑賞することができるほか、672年の「壬申の乱」で背中に矢傷を負われた大海人皇子(おおあまのおうじ)(天武天皇)が「八瀬の釜風呂」で傷を癒した由緒から「矢背(八瀬)」の名の由来にもなっている八瀬名物「かま風呂」を鑑賞することもできます。