京都市左京区花背原地町、北山連峰の大悲山中腹にある山岳寺院で、本山修験宗系の単立寺院。
山号は大悲山(だいひざん)で本尊は千手観音。山号の「大悲」は観音の大いなる慈悲心という意味で、千手観音の別称・大悲観音に由来するものだといいます。
峰定寺のある花背地区は鞍馬山のさらに20kmほど北方、京都市域の北端近くに位置し、元々は愛宕郡花背村といい1949年(昭和24年)に京都市左京区に編入された地域で、寺は花背地区でももっとも奥の花背原地町にあり、京都市の中心部から約35km、バスで約1時間半の距離にあります。
峰定寺は平安末期の1154年(久寿元年)、大峰や熊野で修業した山岳修験者・観空西念(かんくうさいねん)(三滝上人)が鳥羽法皇の帰依を得てその花背の地に創建。
法皇の勅願を受けて三間四面の堂宇を建立したといい、藤原通憲(信西)が造営奉行に任命され、工事には平清盛も関わったといいます。
山全体が山岳信仰の聖地で、山の形が奈良吉野の大峰山(おおみねさん)に似ているところから「北大峰(きたおおみね)」と呼ばれ、古来より修験道場として栄えますが、鎌倉末期に延暦寺と三井寺(園城寺)が峰定寺の支配をめぐって争ったため次第に荒廃。
その後、江戸初期の1676年(延宝4年)(享保年間(1716-36)とする説も)に第111代・後西上皇の勅により、上皇の皇子・聖護院宮道祐親王(どうゆうしんのう 1670-91)が貴船成就院の元快(げんかい)に命じて伽藍を再興し、その後は本山修験宗・聖護院門跡の支配下の寺院となったといいます。
清水寺の本堂を思わせる断崖に張り出した懸造(かけつくり)と呼ばれる舞台造の本堂は、室町初期の1350年(貞和6年)に再建され、その後に何度か修復されたもので、舞台造建築としては日本最古のもので、清水寺の舞台も江戸幕府3代将軍・徳川家光が峰定寺のものを参考に建て直したといい、山麓の仁王門とその左右に安置されている仁王像、そして本堂の東北隅にある供水所(閼伽井)とともに重要文化財に指定されています。
また創建以来の寺宝も多く、鳥羽法皇の念持仏が下賜されたと伝わる本尊・十一面千手観世音菩薩のほか、脇士として奉納された二童子付き不動明王立像、毘沙門天立像、更に仁王門の仁王像などが現代にまで伝わっており、現在は境内の収蔵庫(宝物館)に収められ、5月3日前後のGWの連休3日間と、11月3日前後の連休3日間、および「採燈護摩供」が行われる9月17日に特別公開されています。
修験道の修行場で山自体が聖域であるとの考え方から、仁王門から先はカメラや携帯電話を含めて貴重品以外の荷物は全て受付で預けてから入山することとなっていて、また滑りやすい急な石段が続くため安全面から雨天時や冬期、団体と子供の入山は不可となっているので注意が必要。
参拝は400段余りあるという石段を「六根清浄(ろっこんせいじょう)」と唱えながら15~30分かけて登り、懸崖造りの本堂へと参拝する形になります。
拝観時期としては収蔵庫の特別公開もある5月GWの石楠花(シャクナゲ)の美しい春季と、11上旬の紅葉が見事な秋季が特におすすめです。
そして自然豊かな峰定寺の境内には仁王門横の高野槇(コウヤマキ)をはじめ天然林が数多く残るほか、シダ植物やヒカゲツツジ群落など学術的に重要な植物が生息していて「京都府歴史的自然環境保全地域」に指定され保護が図られているといいます。
その中でも特筆すべきは境内から20分ほど林道を歩いた先にある「花脊の三本杉」あるいは「大悲山の三本杉」と呼ばれる樹齢約1200年と伝わる杉の大木で、古くから白鷹竜王の宿る木とされ、注連縄が張られ御神木として大切に守り続けられ、「京都の自然200選」や林野庁が2000年に選定した「森の巨人たち百選」に選ばれています。
ちなみにこの三本杉については、2017年(平成29年)の林野庁のドローンによる調査で1本の樹高が62.3mと現存する樹木の中で国内最高、日本一であることが判明しました。