京都市北区紫野大徳寺町、大徳寺境内の南側にある臨済宗大徳寺派の大本山・大徳寺の塔頭の一つで、大徳寺南派の本庵。
本尊は釈迦如来坐像で、瑞峯院・大仙院・高桐院とともに大徳寺塔頭で常時公開している4つの寺院の一院。
室町後期の1502年(文亀2年)、大徳寺の開祖・大灯国師より第8代の法孫である大徳寺第72世住職・東溪宗牧(とうけいそうぼく 1455-1517)を開山として、能登(現在の石川県)の守護大名・畠山義元(はやけやまよしもと ?-1515)が豊後(現在の大分県)の守護大名でキリシタン大名として有名な大友宗麟の祖父にあたる大友義長(おおともよしなが 1478-1518)らとともに創建したのがはじまり。
この点、寺名は本山・大徳寺の山号である龍宝山(りゅうほうざん)の「龍」と中国・臨済宗松源派の祖・松源崇嶽(しょうげんすうがく 1132-1202)の禅を正しく継承する松源一脈の「源」の2文字を採ったものといいます。
そして明治の初め頃の「神仏分離令」によって現在の大阪・住吉大社内にあった慈恩寺と、飛騨(現在の岐阜県)高山藩の初代藩主・金森長近(かなもりながちか 1524-1608)が大徳寺内に建立した金龍院(きんりゅういん)とを合併し現在に至っています。
大徳寺塔頭の中では最も古い歴史を有するといい、方丈・玄関・表門はいずれも創建当初のもので国の重要文化財に指定。
中でも「方丈」は室町後期の1502年(文亀2年)の建立で大徳寺山内最古の建物といわれ、禅宗の典型的な形式を示していて、堂内室中の脇壇に安置されている「釈迦如来坐像」は高さ50cm余りの大きさですが、建長2年(1250年)・行心作の墨書が胎内に蔵されており、鎌倉期の名作の一つです。
そしてその方丈の南、東、北に趣きの異なる3つの庭園があり、
まず北側に広がる「龍吟庭(りょうぎんてい)」は、室町期を代表する絵師・相阿弥(そうあみ)の作庭と伝わる室町期の禅院式の枯山水庭園で、「洛北の苔寺」とも称されるように一面の大海原が青々とした杉苔で表現されているのが大きな特徴で、その苔の上に三尊石が建つ須弥山式の名庭です。
また南庭の方丈前庭「一枝坦(いっしだん)」は白砂と石組で構成された蓬莱山式の石庭で、白砂の大海に苔と石組で鶴島・亀島を配した吉祥の庭園、そして東側の「東滴壺(とうてきこ)」は方丈と庫裏の間にある中庭で、1960年(昭和35年)に鍋島岳生によって作庭されたもので、日本最小の石庭といわれ、一滴の波紋が大海原となって広がってゆく様が約4坪のわずかな空間の中に表現されている現代壺庭の傑作です。
この他に庫裏南側にも白砂の庭の東西に豊臣秀吉が建てた聚楽第の遺構と伝わる凹凸型の2つの礎石が配されていることから別名「阿吽の石庭」の名前で知られる書院前庭「?沱底(こだてい)」があり、また寺宝として、豊臣秀吉と徳川家康が対局したと伝えられる四方蒔絵の碁盤や、天正11年(1583年)の銘がある種子島銃などを所蔵していることでも知られています。