京都市北区紫野大徳寺町、堀川北大路より約400m西に大伽藍を構える、臨済宗大徳寺派の大本山・大徳寺の塔頭寺院の一つで、織田信長が創建し、現在は毛利家の菩提所となっている寺院。
大徳寺の広大な寺域の南東側に位置し、龍源院を本庵とする南派に属する寺院で、本尊は釈迦如来。
1562年(永禄5年)、当時28歳の織田信長(おだのぶなが 1534-82)が初めて入洛した際、父・織田信秀(おだのぶひで 1510-51)の追善供養のため大徳寺98世・春林宗俶(しゅんりんそうしゅく 1488-1564)を迎えて創建、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)(きのしたとうきちろう 1537-98)に命じて小庵を建て「黄梅庵」と命名したのがはじまり。
庵名はで釈尊(釈迦)から32代目の法孫で中国禅宗の五祖・弘忍大満(ぐにんだいまん 602-75)ゆかりの地である中国の黄梅県破頭山東禅寺に由来するものだといいます。
1582年(天正10年)に「本能寺の変」によって信長が亡くなると、その後を継いだ秀吉は大徳寺で盛大な葬儀を執り行っていますが、この際に秀吉は信長の塔所とするため黄梅庵を改築しますが、主君の塔所としては小さすぎるという理由から、大徳寺の山内に新たに寺院を建て、信長の法名・総見院殿にちなんだ「総見院」と命名し信長の菩提所としています。
その後、春林の法嗣である大徳寺112世・玉仲宗琇(ぎょくちゅうそうしゅう 1522-1605)が入寺すると、1583年(天正11年)に築を新たにし、1586年(天正14年)にまず秀吉が本堂と唐門を改装、更に1589年(天正17年)には戦国大名で豊臣政権では五大老も務めた毛利元就の三男・小早川隆景(こばやかわたかかげ 1533-97)が普請奉行として鐘楼、客殿、庫裡などを改築するとともに寺名を「黄梅院」と改め、大徳寺の塔頭の一つとなりました。
秀吉没後は小早川家との繋がりで毛利家の菩提寺となり今日に至っており、また黄梅院は小早川隆景の法名でもあるといいます。
現存する建物は桃山期のものが多く残り、本堂(客殿)・庫裡・唐門は国の重要文化財に指定され、中でも「庫裡」は現存する日本の禅宗寺院の庫裡としては最古のものだといい、また「鐘楼」に使用されている「釣鐘」は秀吉子飼いの武将・加藤清正によって献上されたものだといいます。
その他にも茶室「昨夢軒」は千利休の茶道の師である武野紹鴎の作で伏見城の遺構を移築したものと伝わり、書院南庭の「直中庭(じきちゅうてい)」は秀吉の希望により千利休が晩年に作庭した枯山水庭園で、秀吉の軍旗「千成瓢箪」を象った池が配されている名園です。
また貴重な文化財も数多く所蔵しており、「本堂」には狩野永徳や長谷川等伯と並ぶ桃山時代の日本画家で毛利家の御用絵師として雲谷派を築いた雲谷等顔(1547-1618)らの計44面の障壁画(襖絵)があり、本堂とともに重要文化財に指定されています。
通常非公開の寺院ですが、毎年春と秋に特別公開されており、とりわけ紅葉と新緑、そして苔の豊かな寺院で、見頃の時期には美しい景観が境内を彩ります。