京都府八幡市八幡土井、京阪「八幡市」駅から歩いて数分、八幡市を代表する神社である男山の石清水八幡宮から細い川を挟んですぐ東隣にある神社。
大正時代の1915年(大正4年)に飛行機の研究開発で知られた航空界の先駆者・二宮忠八が創建した、日本で唯一の航空関係の神社です。
二宮忠八(にのみやちゅうはち)は1866年年(慶應2年)6月、愛媛県八幡浜市に生まれ、1887年(明治20年)12月に丸亀歩兵連隊(香川県)に入隊。
四国山岳地帯の仲多度郡十郷村もみの木峠(現在の香川県まんのう町)で演習中、烏が残飯を求めて滑空する姿に興味を示し、空を飛ぶ機械の発明のヒントを得たといわれています。
その後、研究に研究を重ねて1891年(明治24年)4月29日にはゴム動力プロペラ式による「カラス型飛行器」の飛行実験に成功。
日本で最初に固定翼の理論、飛行原理を発見し、ゴムを動力とする世界初の模型飛行器を発明した忠八は、次なる目標として飛行機の実用化を試み、有人飛行機の考案に着手をはじめます。
そして1893年(明治26年)には設計を完了し、試作機の実験に入ろうという時、「日清戦争」が勃発し出兵することとなりますが、この時に戦場の様子を見て、飛行器を軍に提供すれば役に立てると考えた忠八は、軍用機として軍に研究・開発してもらおうと願い出ますが、この申し出はあえなく却下。
このため独力での完成を決意し、大阪の大日本製薬株式会社に入社し、薬品の製造に携わることで資金を蓄えはじめたのでした。
そして1900年(明治33年)、飛行機開発の準備が整った平八は出身地とよく似た地名を持つ京都府八幡町にて開発を開始しますが、その矢先の1903年(明治36年)12月17日、有名なアメリカのライト兄弟が飛行機を完成させ飛行に成功。
先を越されたことを知ると、このまま飛行機を作ったとしても「真似」という評価しか受けないとして開発を断念したのでした。
その後は飛行機の開発からは遠ざかっていましたが、飛行機が発明されて以来航空事故が多発するようになったことに心を痛めた平八は、犠牲者の霊を慰めるのが飛行機開発に携わった者としての責任であると、1915年(大正4年)に私財を投じて京都府八幡市の自宅内に犠牲者の霊を祀る神社を創建。
今日では航空安全の守護神として、航空関係者などから厚く信仰される神社となっています。
祭神は古代の空の神「饒速日命(にぎはやひのみこと)」と、家業に所縁のある薬祖神。
この点、饒速日命は神話において天磐船(あまのいわふね)と呼ばれる飛行船に乗って地上に降臨したとされ、創建にあたっては自在に空を飛んだとされる空の神様を大阪府交野市の磐船神社より勧請しています。
この他にも前述のとおり全世界の航空殉難者の英霊を合祠しており、このことから有名な東京の靖国神社と同様、特定の条件に当てはまる死者の霊を祀るといういわゆる「招魂社」としての性格を持つ神社でもあります。
ちなみに神社はその後1936年(昭和11年)に忠八の死により一時廃絶していましたが、1955年(昭和30年)に忠八の次男・二宮顕次郎によって再興され、1992年(平成3年)8月には宗教法人となっています。
現在の社殿および資料館は1989年(平成元年)に忠八の飛行原理発見100周年を記念し、顕次郎によって全面改装された時のもので、神社としては珍しい「古代ギリシャ神殿」風の拝殿に、鳥居は航空機の素材として使われることの多いジュラルミンで作られており、ユニークで独創的な建造物を持つ境内となっています。
一方併設された「飛行神社資料館」には、忠八や航空機に関係する資料のほか、飛行機のエンジンやプロペラ、更には忠八が発明したカラス型・玉虫型などの模型飛行器も展示・保存されています。
またご利益は航空安全、更には「旅行安全」や「交通安全」ですが、「落ちない」という言葉にかけて「合格祈願」のお守りして受験生にも人気があるといいます。