京都市伏見区醍醐伽藍町、世界遺産にも認定されている醍醐寺・下醍醐にある金堂の北東丘陵にある神社。
祭神に学問の神様として知られる菅原道真(すがわらのみちざね 845-903)を祀る天満宮の一社で、これに加えて大国さんとして有名な大己貴命(おおなむちのみこと)と、天照大神の弟で八坂神社の祭神として有名な素戔鳴命(すさのおのみこと)の2柱が併せて祀られています。
平安中期、菅原道真が第60代・醍醐天皇(だいごてんのう 885-930)に従って長尾の地を遊覧した際、この地を気に入り自分の死後にここに墓を築きたいと醍醐寺の開祖・聖宝(しょうぼう 832-909)(理源大師)と約束。
しかし道真は903年(延喜3年)に太宰府で没したため、その没後に聖宝の弟子であった醍醐寺1世・勧賢が大宰府に使者を遣わして衣裳や遺物を持ち帰り、この地に埋めて塚を築いたと伝わっていて、現在も参道の石段を登り切った所に「菅公衣裳塚」として宝筐印塔が残されています。
その創建は道真の霊を鎮めるため醍醐天皇の勅願によって祀られたとも、醍醐天皇の没後、947年(天暦元年)に創建された北野天満宮のわずか2年後の949年(天暦3年)ともいわれています。
平安後期、源頼政は「平治の乱」で功績を立て、平清盛の推拳で従三位となり源三位頼政と称しました。
しかしその後平家に半期を翻すこととなり、1180年(治承4年)に後白河法皇の皇子・以仁王を奉じて平氏追討を企てて挙兵するも敗れ、滋賀県大津の園城寺(三井寺)から奈良へと逃れる途中、宇治の平等院で自刃しました。
「源平盛衰記」に「醍醐路に懸かりて木幡の里を伝いつつ宇治へ」と記されているように、この時に頼政が通った間道は烏橋、長尾天満宮、一言寺、日野法界寺、木幡を通り宇治に抜ける山道で、「頼政道」と呼ばれて当社の境内にはその遺構が残されているといいます。
「応仁の乱」の際には下醍醐一帯が五重塔を除いてことどとく焼失し、当社も難を免れなかったといいますが、その後1801年(寛政13年/享和元年)に再建されるも1805年(文化2年)に再び火災にかかり焼失。現在の本殿は江戸後期の1821年(文政4年)に再建されたものといいます。
また一説には1599年(慶長4年)、豊臣秀吉が醍醐天皇の遺徳を讃えるため現在の醍醐寺の金堂を紀州の満願寺より移築しようとした際、その工事中に事故が相次ぎ、菅原道真の祟りとされたことから、道真の霊を鎮めるために高台の衣装塚のそばに天満宮を創建したとも伝えられています。
古くは醍醐寺の五重塔西側の「清滝宮」とともに醍醐寺の鎮守の一つであったといいますが、現在は醍醐地区の産土神として親しまれています。
醍醐寺の仁王門の門前を左(北)へ100mほど進んだ先、醍醐寺塔頭・理性院の向かいに長尾天満宮の石標と石の鳥居があり、そこから高台に向かって参道がまっすぐに延びており、100m進むと二の鳥居、更にそこから180段の石段を登った先が神社の境内となっています。
境内は杉や檜、イロハモミジを主とした深い緑の木々に囲まれたひっそりとした境内ですが、付近の学生たちが長い石段を使ってトレーニングする姿が見られるといいます。