京都市山科区大宅中小路町、京都橘大学の北側の住宅地の中に鎮座する神社。
山科一之宮で氏子域は山科ほぼ全区にわたり、地元では「いわやさん」と呼ばれ親しまれています。
近代社格制度では郷社で、式内名神大社「山城国宇治郡 山科神社二座」に擬せられた時もあったといいますが、現在は山科神社が式内社「山科神社」に比定する説も有力であり、山科神社では当社を奥の院と位置付けているといいます。
祭神として天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)と栲幡千々姫命(たくはたちぢひめのみこと)の夫婦神、および両神の子で神武天皇に国を譲った饒速日命(にぎはやひのみこと)を祀ります。
この点「天忍穂耳命」は天照大神の子で、家内安全、厄除、勝運の神様として知られ、
「栲幡千々姫命」は高皇産霊命(たかみむすびのみこと)の娘で、機織や染物関係の守護神として崇敬されているほか、子授け・安産の神様としても知られている神様で、
また天忍穂耳命と栲幡千々姫命の夫婦神は、古来より男女の仲を取り持つ縁結びの神様として信仰されているといいます。
一方「饒速日命」は怪我腫物、病気平癒の神様として知られているほか、高天原より天の磐船に乗って河内国の哮峯(たけるがみね)に降臨されたと伝承されていることから「交通安全」の神様としても有名です。
大阪府交野市にある「磐船神社」にも祀られていて、同神社には饒速日命が乗ってきた天の磐船とされる巨岩が神体石として祀られ、正面に拝殿が建てられているといいます。
岩屋神社はその磐船神社と同じく石座信仰に始まる神社で、本殿背後、東へ約500mの山腹に「奥之院」あるいは岩屋殿と呼ばれる陰陽一対の巨巌があり、これを磐座として祀ったのが当社の起源とされていて、社伝では343年(仁徳天皇31年)の創建と伝えられ、境内より奈良期以前の土器なども出土しているといいます。
その後、宇多天皇時代(887~896年)の寛平年間、物部氏系の大宅氏が山科を開拓するにあたって祖神として陰巌に栲幡千千姫命、陽巌に天忍穂耳命、更に岩前の小祠には饒速日命が祀られました。
平安後期の治承年間(1177-81年)には園城寺僧徒によって社殿が焼かれて旧記も失われますが、鎌倉時代の1262年(弘長2年)に再建され、更に中世には「東岩屋」として、西岩屋の山科神社、上岩屋(神社名は不詳)とともに「東西上の岩屋三社」と呼ばれ、山科東北部の産土神として信仰を集めたといいます。
明治維新後の1873年(明治6年)に郷社に列した後、第二次世界大戦後は神社本庁に属し、近年になって奥ノ院に続く参道などが整備され、数十基の鳥居が奉納されて現在に至っています。
行事としてはまず毎年4月29日に開催される「例大祭(春祭)」が有名で、本殿祭にて献茶・献花・太鼓の奉奏の儀などが行われた後、湯立神事や火焚神事が執り行われ、更には岩屋音頭や生け花展示、お茶席、露店・福引抽選会など、多種多彩な行事が催されます。
更に毎年10月第3日曜日の「秋祭り」は別名「山科祭」と呼ばれ、3基の神輿が広い氏子区域を巡行し大いに賑わいます。
この点「山科祭」は平安中期の年中行事の起源や沿革、内容などを纏めた「本朝月令(ほんちょうげつれい)」に898年(昌泰元年(寛平10年))3月のに「式内社山科神社」の祭礼が官祭とされたと、また「延喜式」においては毎年4月・11月の上巳の日に山科祭が斎行された旨の記述が見られるなどの古い歴史を有し、往時には祇園祭にも負けないぐらいの盛大なものだったといいますが、近年山科では他にも山科神社や諸羽根神社、六所神社など、多くの神社で同じ日に神輿巡行が行われていて、これを総称して「山科祭」と呼んでいるといいます。
その他にも「節分祭」「お田植祭」「水無月夏越の大祓式」「八朔祭・御百燈献灯神事」など、多彩な行事が行われていることで有名な神社です。