京都市南区久世上久世町、桂川に架かる久世橋の西方、JR桂川駅の北東約400mの上久世の地にある西山浄土宗の寺院。
山号は医王山で、本尊は蔵王堂に祀られている蔵王権現。
平安中期の955年(天暦9年)、吉野金峰山で蔵王権現を感得した浄蔵貴所(じょうぞうきしょ 891-964)が、第62代・村上天皇(むらかみてんのう 926-67)の勅願寺として創建したのがはじまりで、当時は平安京の東北の表鬼門・比叡山に対して、西南の裏鬼門の寺として京城を鎮護する役割を担っていたといいます。
この点「浄蔵貴所」は平安中期に活躍した天台宗の僧で、文章博士で参議でもあった漢学者・三善清行(みよしきよゆき)の八男で、母は嵯峨天皇の孫とも伝わり、4歳で千字文を読み、7歳で父を説得して仏門に帰し、熊野や金峯山を経て12歳で宇多法皇の弟子となり、受戒後は19歳で比叡山横川に籠って毎日法華六部誦経、毎夜六千反礼拝を行ったといいます。
加持祈祷を得意とし、呪力を発揮して数々の予言や奇跡を起こしたことで知られ、菅原道真の怨霊に悩んだ藤原時平を護持祈念すると2匹の青竜が時平の左右の耳から頭を出した話や、平将門の降伏を祈祷し調伏した話、五重塔(八坂の塔)が西に傾いた際に加持により元に戻した話、一条戻橋にて死んだ父・三善清行を一時的に蘇生(そせい)させた話などが有名で、日本三大祭の一つである「祇園祭」の山鉾の一つである「山伏山」のご神体としてもおなじみです。
また本尊である「蔵王権現(ざおうごんげん)」は、修験道の祖・役小角が吉野の金峯山で千日の修行中に示現したという伝承を持つ、インドに起源を持たない日本独自の山嶽仏教である修験道の本尊で、奈良県吉野町の金峯山寺本堂(蔵王堂)の本尊として知られています。
「権現」とは「権(仮)の姿で現れた神仏」を意味し、釈迦如来(過去)、千手観音(現在)、弥勒菩薩(未来)の三尊が権化され、過去・現在・未来の三世にわたる衆生の救済を誓願して出現された仏様です。
その後、戦国時代まで蔵王の杜に鎮座し、綾戸神社に合祀されて綾戸国中神社となった国中神社の神宮寺であったといい、また室町時代は高野山真言宗の東寺(教王護国寺)の支配下にあり、近世以降は三鈷寺の末寺となります。
そして現在は境内に蔵王権現が安置されている蔵王堂のほか、薬師堂、弁天堂、子守勝手社、仁王門など、8つの堂宇を辛うじて構えるのみとなっていますが、境内を覆うクスノキなどを中心とした「蔵王の森」は糺の森や藤の森とともに古来より「京の七つの森」の一つに数えられ、往時の名残りを今にとどめています。
また境内の「蔵王堂」は室町期から江戸期を通じて近郷の民衆の地域拠点として用いられ、上久世の農村を中心に六斎講が行われていたといい、毎年8月朔日に行われる「八朔祭」で奉納される国の重要無形民俗文化財指定の「久世六斎念仏」は、当寺が発祥とされています。
この点「六斎念仏」は太鼓や鉦を打ち「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えながら踊る民族芸能で、平安時代中期に空也上人が一般庶民に信仰を広めるために始めたと伝わる踊念仏(おどりねんぶつ)に起源を持ち、月に6日ある忌み日「六斎日」に行われたことから「六斎念仏」と呼ばれるようになったそうです。
そして、室町中期頃からは能や狂言も採り入れられ大衆化され、現在は京都を中心に六斎日に関係なくお盆の前後や地蔵盆に行われています。
1977年(昭和52年)にはこの平安期から続く貴重な民俗芸能の保存・継承に努力していくために「京都六斎念仏保存団体連合会」が結成されるとともに、1983年(昭和58年)には「国の重要無形民俗文化財」にも指定されています。
そして現在の京都の六斎念仏は大きく分けると、念仏を唱えながら鉦と太鼓を打つという原型を留めた形の干菜山光福寺を総本山とする干菜系の「念仏六斎」と、能や狂言などを採り入れ芸能的色彩を帯びていった紫雲山極楽院空也堂を中心とする空也堂系の「芸能六斎」に分類されます。
久世は芸能六斎系で、太鼓、鉦、笛を使って、謡曲や長唄などから取材した曲や獅子舞、祗園囃子なども演じられ、民衆の娯楽として発展し、地元の久世六斎保存会によって現在まで伝承され、祇園祭の花傘巡行にも参加しています。
そして8月31日の「八朔祭」では、日頃は静かな佇まいの境内が参道に露店も出て大いに賑わいます。