京都市伏見区久我本町、城南宮や鳥羽離宮跡公園などにほど近い京阪国道1号線の赤池交差点の西、桂川に架かる久我橋の西詰南側に位置する曹洞宗の寺院。山号は妙覚山。
宗祖生誕の地である京都市伏見区の「久我(こが)」の地に大正時代に創建され、2000年(平成12年)の曹洞宗の宗祖・道元の生誕800年を前に昭和になって伽藍が完成した、京都では比較的歴史の浅い寺院です。
この点「久我」の地はかつては久我の庄と呼ばれ、村上天皇の孫・源師房を祖とする「村上源氏」の嫡流で内大臣として辣腕をふるった道元の父・源通親(久我通親(こがみちちか))の所領だった場所で、別邸として「久我水閣」があり、通親の子で道元の異母兄にあたる源通光はこのに別荘を持った事にちなんで久我姓を名乗りました。
そして後に日本における曹洞宗の祖となる道元は、鎌倉初期の1200年(正治2年)に通親と摂政関白・藤原基房(ふじわらのもとふさ)の娘、藤原伊子(ふじわらのいし)の間に生まれています。
ちなみに生誕地については諸説あり、一つは藤原道長など歴代の藤原氏の埋葬地として知られる宇治市木幡にあった、道元の母方の祖父である摂政関白・藤原基房(松殿基房)の別邸「木幡山荘」で、少年期の道元がこの地から叡山へ赴いたという伝承が残されていることから推測されたもので、現在同地には「松殿山荘」が建てられています。
そしてもう一説が父方の所領であった久我(こが)の地ですが、明治維新の後、京都の公家たちは京都から東京へ移り住み、久我家も久我の地を離れたため、周辺は一時荒廃していたといいます。
その後、1916年(大正5年)に当時の曹洞宗大本山永平寺の第66世・日置黙仙(ひおきもくせん 1847-1920)が東京に移り住んでいた久我家当主の侯爵・久我通久(こがみちつね 1842-1925)より、この地が道元の父方にあたる久我家の別邸「久我水閣」の旧地であることを聞き、共に久我の地の歴史を調査。
その結果、久我の地が道元の誕生地であると合議一致し、その顕彰のための寺院の建立を発願。政財界や宗門寺院の協力を得て、1919年(大正8年)に福井県の武生小松の郷(現福井県越前市小松町)にあった道元ゆかりの華厳山妙覚寺を移し「誕生山妙覚寺」として創建したのがはじまりです。
翌1920年(大正9年)5月には仮本堂にて妙覚寺より移した道元禅師の自作と伝えられる禅師尊像の入仏遷座の式も行われますが、同年9月2日に日置黙仙亡くなったためにその後の計画は頓挫。その間の1941年(昭和16年)には「妙覚山誕生寺」と改称し、豊川稲荷を勧請奉安して寺の復興が祈願されています。
その後2000年(平成12年)の道元禅師生誕八百年を迎えるにあたってようやく復興計画が進み、本山や全国の信者等の寄付によって境内および堂宇の整備が1982年(昭和57年)より16年かけて行われて現在に至っています。
1988年(昭和63年)完成の本堂をはじめ、稲荷堂(豊川稲荷)、山門、庫裏、座禅堂、鐘楼堂、供養塔といった伽藍がこの時に新築されており、本堂には道元自作の道元禅師像の前にご誕生仏像が置かれています。
この他にも道元禅師幼少像、慈母観音像、仏足石、更に本堂の西には「道元禅師産湯之井戸」があり、山門前には、鐘楼や区民の誇りの木に選ばれたイチョウなどがあります。
更に新しい五輪石塔と宝篋印塔は、禅師の両親(久我通親と母伊子)の恩に感謝するために1997年(平成9年)に建造されたものですが、このうち母の供養塔である宝篋印塔は、久我の地に伝わっている宝篋印塔「鶴の塔」を模したものだといいます。
周辺には久我家の祖の源雅実が承久元年、奈良春日大社より勧請した天児屋根命を祀る菱妻神社のほか、久我神社も近くにあります。