京都市伏見区久我石原町、京都市の南西の桂川と西高瀬川、鴨川の三川が合流する地点の右岸、桂川に架かる名神高速道路の桂川大橋の西側に位置する久我地区にある神社で、久我の産土神。
平安後期の1113年(永久元年)2月、右大臣・源雅実(みなもとのまさざね 1059-1127)が奈良の春日大社から藤原家の祖神・天児屋根命(あめのこやねのみこと)を勧請し源氏の守護神「火止津目大明神」として祀ったのがはじまり。
この点、源雅実は第62代・村上天皇(むらかみてんのう 926-67)の第7皇子・具平親王(ともひらしんのう 964-1009)の子で、源姓を賜って臣籍降下し村上源氏中院流の祖となった源師房(みなもとのもろふさ 1008-77)の孫にあたります。
姉の藤原賢子(ふじわらのけんし 1057-84)が第72代・白河天皇(しらかわてんのう 1053-1129)の中宮となり、次いでその間に生まれた第73代・堀河天皇(ほりかわてんのう 1079-1107)が即位したため、19歳にして参議に昇り、内大臣・右大臣を経て、1122年(保安3年)には源氏として最初の太政大臣になったことから「久我太政大臣」と称された人物で、また舞楽や文学に長じた文化人としても名を残しました。
そして久我の地に大別荘「久我の水閣」を作り、村上源氏の中核となる久我家の祖となった人物です。
遷座当時は広大な社領と社殿があったといますが、桂川・鴨川の氾濫の度々の被害を受けたため、1154年(久寿元年)に水徳があるとして社名を「菱妻大明神(ひしづま)」の字に改められたと伝えられています。
この点「火止津目」には火を止めて鎮めるという意味がありますが、「菱妻(ひしづま)」には「菱」が水を、「妻」はそれをせき止めるという意味があるといい、火を鎮めるためには水を使わなくてはならたいため、火を操る神様は水を操る力も強いと考えたようで、更に人々の生活になくてはならない火や水を鎮める点から、現在はあらゆる物事を鎮めて人々を守ってくれる「鎮めの神」として広く信仰されています。
そして中世以降は久我の地が荘園領主である久我家の根本家領として長く伝領さたこともあって久我家の鎮守として、更には久我郷の産土神として崇められ、祭や村の在り方などの様々な点にも中世以来の伝統を残す貴重な地となっています。
この点、5月に行われる「千種祭(ちくさまつり)」はその起源は古く、少なくとも15世紀にはほぼ現在の形で行われていたと考えられ、500年以上も同じ形で伝承されているという貴重な存在で、中世には競馬(かけうま)や猿楽・田楽も盛んに行われ盛大を極めたといい、かつては巡幸に牛車(御所車)のお供があり、五色の紙で作った造花(花巻)と幕で飾られた牛車には男の子が乗り「千種の花を手に摘み入れて御所へ参らせ、御所へ参らせ」と歌ったといいます。
一時期は神輿の渡御も行われていなかった時期もあったといいますが、1978年(昭和53年)の御旅所の新築を機に復活し、花巻の飾られた牛車とともに巡行し、1989年(平成元年)からはこども神輿もお供するようになり、更に2010年(平成22年)には御旅所にて約50年ぶりにお囃子の奉納も行われています。