京都市伏見区桃山町泰長老、宇治川に架かる観月橋の近く、指月の森の近くにある浄土宗寺院で知恩寺の末寺。
山号は松風山、本尊は阿弥陀如来。
安土桃山時代の1596年(慶長元年)に相模国小田原生まれの雲海が宇治川対岸の向島橋詰町に滞在した際、付近の住民に懇願されて世継地蔵尊を安置し創建したのがはじまりで、江戸中期の1686年(貞享3年)、5世・義雲の時に公儀の命によって現在の指月の地に移転されることとなります。
この点、指月の地には寺の創建と同年に豊臣秀吉の命で伏見城の前身である「指月城(しげつじょう)」が建てられますが、建造後すぐに「慶長の大地震」で倒壊し、現在の伏見桃山陵がある木幡山に「伏見城」として再建されていて、指月城の周辺には諸大名の屋敷が数多く建てられたといい、その中の徳川家康の六男・松平上総介忠輝の屋敷跡を下付されたものでした。
その後は度々住職が変わったり無住の時代もあるなどして次第に荒廃しますが、1883年(明治16年)に34世・寛兆が新たに住職に就任すると、本堂や庫裡の大改修や、書院の新築など伽藍を整備し現在の基礎を作り、更に後を継いだ代々の住職たちにより書院・参道の改修、年別過去帳・戸別過去帳の新編纂、本堂・地蔵堂・山門の改修などが進められ現在に至っています。
「狸寺(たぬきでら)」の通称の由来は江戸末期の文久年間(1861-64)、当時の住職であった30世・冠道が裏山「指月の森」に棲みついた雌狸を「八」と名付け餌を与えて飼い犬のように手なづけ、手を叩くと裏山から下りてきて愛嬌を振りまいていたといいます。
そしてそれを耳にした俳人、歌人、画家などの文人墨客から庶民に至るまで多くの人々が狸の見物に訪れ人気者となったといい、その中で近所に居住し当時京焼の名工として知られていた陶芸家の初代・高橋道八(たかはしどうはち)が、狸見物の謝礼として等身大の狸の置物を寄進。これが評判となりいつしか「狸寺」の名で呼ばれるようになったといいます。
その信楽焼きの狸のモデルになったともいわれている狸の像は現存せず、いつの頃からか途絶えてしまっていましたが、35世・寛順の時代に狸の置物の蒐集が開始され、現在も引き続きコレクションが続けられていて、境内で焼物の狸の姿を見ることができるほか、花器や徳利など数百点のコレクションが無料で公開されています。
ちなみに狸は1868年の「鳥羽・伏見の戦い」の頃より姿を見せなくなったといいますが、2004年(平成16年)頃より再び、裏山に野生の狸の姿が見られるようになったといいます。