京都市伏見区豊後橋町、伏見の町の南部に位置する宇治川沿い、国道24号(奈良街道)と宇治川が交差する地点に架かる「観月橋」のすぐ東側にある京阪宇治線の駅。
この点、豊臣秀吉が天下人となった安土桃山時代、付近一帯には広大な巨椋池(大池)が広がり、宇治川は巨椋池に注いでいましたが、1594年(文禄3年)、秀吉は伏見城築城にあたって大規模な土木工事を行い、槇島堤(宇治堤)を造成することでそれまでの自然な流れから宇治川を北側の伏見に迂回させて伏見城の舟入に流入させる宇治川の付け替えを行いました。
更に秀吉は巨椋池の拡大を防ぎ東岸を固定するために池の東側に池を完全に遮断する形で太閤堤(小倉堤)を造成し、加えて付け替えた宇治川に橋を架け、伏見から橋を渡って太閤堤(小倉堤)を通り巨椋池の南で大和街道と直結させる工事も行われ、京都から伏見を経て奈良に通じる近道として人々の往来に重要な役割を果たしたといいます。
そしてこの伏見と太閤堤(小倉堤)をつなぐ全長約160mの木造の橋は豊後の大友氏に命じ架橋されたことから「豊後橋」と呼ばれ、現在の観月橋周辺の地名も当時の名残りから「豊後町」となっていますが、この橋から眺める月は実に美しかったといい、秀吉が近くにある円覚寺、現在の月橋院で月見の宴を催したことから「月見橋」と呼ばれるようになり、そしていつしか「観月橋」と呼ばれるようになったといいます。
豊後橋は江戸時代を通じ18回の架け替えや修復の工事が行われたといいますが、幕末の明治維新を決定づけた「鳥羽伏見の戦い」で焼け落ち、その後は渡し船が就航したといいますが、1873年(明治6年)の再建に伴って「観月橋」と命名され、その後1908年(明治41年)に鉄橋とされた後、現在の橋は1936年(昭和11年)に鉄筋コンクリート製で架けられたものです。
そして観月橋には自動車社会の到来による交通量の増加に伴って1975年(昭和50年)に車両専用の高架橋「新観月橋」が架けられて2階建て構造となり、現在に至っています。
京阪の「観月橋駅」は1913年(大正2年)6月1日、京阪の宇治線の開通と同時に設置された駅で、その後1943年(昭和18年)10月に戦時中の企業統合政策によって、京阪電気鉄道が阪神急行電鉄(現在の阪急)と合併するといったんは阪急の駅となりましたが、戦後の1949年(昭和24年)12月に京阪神急行電鉄から京阪電気鉄道が再び分離独立すると、再び京阪の駅となっています。
相対式2面2線のホームを持つ地上駅で、宇治川の国道24号線に架かる観月橋の北詰、駅の西側に改札口がありますが、改札口は上下線が別々になっており、改札内で互いのホームを行き来することはできず、北側の宇治方面の改札口には早朝深夜を除いて駅員が配置されていますが、南側の中書島方面ホームは無人となっています。
駅周辺は南側にあった巨椋池が1934年(昭和9年)から1941年(昭和16年)にかけて行われた干拓事業によって農地に姿を変え、また太閤堤(小倉堤)だった場所には近鉄京都線が走っているなど大きな変化を遂げましたが、現在農地の多くは集合住宅へと姿を変えて伏見最大のベッドタウンとして発展しており、駅の利用客も多いといいます。