京都市東山区本町15丁目、臨済宗東福寺派の大本山・東福寺の北側、北門にほど近い位置にある東福寺の塔頭寺院。
本尊は千手観音。
南北朝時代の1346年(貞和2年)、東福寺第43世住持・性海霊見(しょうかいれいけん ?-1396)によって創建。
その後室町時代の「応仁の乱」による戦火で一時荒廃しますが、有名な「関ヶ原の戦い」の前年の1599年(慶長4年)に中国地方の有力大名・毛利家の外交僧として活躍した安国寺恵瓊(あんこくじえけい 1539-1600)によって再興。
現在ある客殿はこの再興時に建てられたもので、京都府指定文化財に指定。
また茶室「作夢軒(さくむけん)」は豊臣秀吉の没後に西軍に与した恵瓊が石田三成や宇喜多秀家らと徳川家康を討伐するため、関ヶ原合戦の謀議をめぐらしたと伝えられ、緊急の際の隠れ場所である「忍び天井」や護衛の武士が控えたとされる「伏侍の間」といった戦国時代の特色がその当時のままに残されているといいます。
また幕末の1868年(慶応4年)に勃発した「鳥羽伏見の戦い」においては同寺が東福寺境内の北側に位置し、伏見街道の要所にあたることから長州藩の陣が置かれ、その関係から後にその戦いの防長殉難者の菩提所となっています。
境内の庭園は書院を挟んで南北に2つの庭で構成されていて、このうち南庭は「真隠庭」と呼ばれ、室町初期、開山・性海霊見の作庭といわれ美しい苔に覆われた枯山水庭園で春はキリシマツツジが美しいことで有名。一方の北庭は池泉観賞式の庭園となっています。
この他にも同寺は平安期に活躍した女流歌人で絶世の美女といわれた「小野小町ゆかりの寺」としても知られていて、境内の地蔵堂に安置されている高さ2mの地蔵菩薩像は胎内に小町に寄せられた多数の玉章(恋文)が納められていることから「玉章地蔵(たまずさじぞう)」と呼ばれているほか、地蔵堂の前には井戸の水鏡に映った年老いた自分の姿を見て嘆いたといわれる「小野小町百歳井戸」、また客殿には「小町百歳像」も安置されています。