京都府乙訓郡大山崎町大山崎天王、大山崎町の天王山の山頂近く、山頂から100mほど下がった位置に鎮座する神社。
秀吉と明智光秀が「山崎の戦いで」争った天下分け目の山として知られる標高270mの「天王山」の登山中に参拝することができる神社です。
正式名称は「自玉手祭来酒解神社(たまでよりまつりきたる さかとけじんじゃ)」で、地元では酒解神社(さかとけじんじゃ)、「さかとけさん」と呼ばれ親しまれています。
創建の由来は不明ですが、ただし元正天皇の「養老元年(717年)建立」の棟札があることから、創建は奈良時代にまで遡るとみられています。
旧名を「山埼杜」といい当初は天王山の麓、現在の離宮八幡宮の地に祀られていました。
この点、平安時代の927年(延長5年)にまとめられた当時「官社」に指定されていた全国の神社一覧「延喜式神名帳」には「山城国乙訓郡 自玉手祭来酒解神社 元名山埼杜」と記載され、月次、新嘗の官祭を受ける名神大社であることが記されており、延喜式内社としては乙訓地方で最も古い神社であるとともに、平安時代にはかなりの大社だったことが推測されます。
その後同社の祭祀は途絶え、明治時代まで所在が分からなくなっていましたが、中世には山下の離宮八幡宮の勢力が強大となったため、同社は山崎山(のちの天王山)の山上に遷座し、祭神の天神八王子神=牛頭天王(こずてんのう)からやがて「山崎天王社」と呼ばれるようになり、山も元々は山崎山だったものが「天王山」と呼ばれるようになっていったのだといわれています。
そして明治維新後の1877年(明治10年)6月、その山崎天王社が式内社の自玉手祭来酒解神社であるとされ同社名に改称。
現在の祭神はそのときに定められたもので、大山祇神を主祭神とし、素盞嗚尊を相殿に祀っています。
大山祇神といえば山を司る神として知られ、祓いの神でもあり疫鬼を懲らしめ退散させる辟邪神でもある神様ですが、元々の祭神は山崎神(酒解神)であったといい、出自は不明であるものの橘氏の先祖神であるといわれています。
一方の素盞嗚尊は、旧天神八王子社の祭神・牛頭天王を、神仏分離に伴い改めたもので、防疫神として知られています。
「本殿」は江戸後期の1813年(文化10年)に火災によって焼失した後、7年後の1820年(文政3年)に再建されたもので、近年国の登録有形文化財となりました。
また本殿の手前南側に建つ板倉造りの「神輿庫」は鎌倉時代の建築で、三角材を組んだ正倉院式ではなく、校倉造りの三角材の代わりに12cm余りの厚みのある檜板を置き重ねた「板倉造」という他では例を見ない珍しい建築様式が用いられており、国の重要文化財に指定されています。
行事としては隔年の5月4日に神輿の巡行が行われ、西国街道を3時間かけて練り歩く「神幸祭」が最も有名です。