京都市右京区山ノ内荒木町、三条通と天神川の西を通る天神川通(国道162号)との交差点「天神川三条」に鎮座する神社で、山王神社の御旅所。
別名「山ノ内庚申」とも呼ばれ「京洛三庚申」の一社に数えられる神社です。
創建は平安時代とも伝わる歴史ある神社で、平安時代に天台宗開祖・伝教大師最澄が座禅のために霊窟を求めて探していたところ、猿田彦大神が現れてこの地を指し示しため、座禅石の傍らに猿田彦神を祀ったのがはじまりと伝わっています。
その後、後嵯峨天皇の行幸の際にも、猿田彦が現れ、道案内を務めたとされ、その後嵯峨天皇の命により、社殿が建立されたと言われています。
元々は現在の場所よりも少し北の安井村松本領(現在の太秦安井松本町)に位置し、山伏修験者の行場があり、多くの修験者が愛宕詣りの参詣前に滝行で身を清めたと伝えられています。
同社は1885年(明治18年)に現在地に移築していますが、今も行場の名残りをとどめる大小無数の石が境内北側に存在するほか、火伏の神・秋葉明神、南側には不動明王も祀られていて、また1980年(昭和55年)の60年毎の庚申の年にあたって、御神殿修復中礎石に使用されていた道標に刻まれた、「あたごへ二里半」の文字にも往時を偲ぶことができます。
祭神「猿田彦大神(さるたひこおおかみ)」は天照大神の孫にあたられる邇邇芸命(ににぎのみこと)の天孫降臨の時に道案内をしたことで知られ、もっぱら道開き・道案内の神様として有名で、交通安全のほか、人生の道案内の神として「開運除災」「除病招福」にもご利益があるとされています。
また天岩戸の前で踊ったことで知られる天鈿女神(あめのうずめのかみ)を妻に持つことから、芸能の神様として「諸芸上達」のご利益でも知られています。
また同社は「庚申信仰発祥の地」ともいわれており、「山ノ内庚申」の別名を持ち八坂庚申堂、粟田口庚申堂(尊勝院)とともに「京都三庚申」の一つにも数えられています。
この点「庚申信仰」とは、1年365日の中で60日ごとに、年に6~7回訪れる庚申(かのえさる)の日の夜に眠らずに身を慎むことで、寿命を縮めず長生きできるように祈る信仰のこと。
これは道教の考え方の中にある行いの善悪によって寿命が増減するという「三尸説」に基づいたもので、すなわち庚申の日の夜には、人が眠りに就いた後、体内に住む三尸(さんし)と呼ばれる虫が身体から抜け出して、その人の行いを司命道人(閻魔大王)に報告し、命を縮めるとされていて、そこで、三尸が報告に行くことが出来ないように庚申の夜は眠らないで身を慎むという、守庚申(しゅごうしん)という風習が生まれました。
庚申信仰は、奈良時代に日本へ伝わり、まず貴族の間で流行し庚申御遊(ぎょゆう)と称したて詩歌管弦の遊びが催され、その後は武家でも「庚申待(まち)」として会食が行われたりもしました。
また仏教や修験道、神道など、さまざまな信仰や習慣が入り混じって、信仰対象の特定されない特異な信仰として庶民の間にも広まります。
このうち神道では猿を神使とする山王信仰と習合し、猿の信仰と結びついて猿田彦や道祖神を祀られたほか、近世に入ると村落社会の講組織と結びつき、仏教において帝釈天の使者で青色に三眼と複数の腕を持つ鬼神・青面金剛(しょうめん)を本尊とする信者の集まる「庚申講」は代表的な講となりました。
同社も猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)を主祭神としており、境内には神使とされる多くの猿の像があり、とりわけ「見ざる、言わざる、聞かざる」の「三神猿」は世の諸悪を排除して開運招福をもたらすとされて信仰を集めています。
境内には「区民の誇りの木」に選ばれている「庚申楠」の大木が生い茂り、小さな神社で普段はひっそりとしていますが、縁日でもある60日に1回の庚申日には祭事が行われ多くの参拝者が訪れます。
とりわけ新年初めの初庚申日には、「護摩焚き神事」が行われ、多くの参拝者で賑わいます。