京都市右京区花園寺ノ中町、臨済宗妙心寺派大本山・妙心寺の境内北東にある妙心寺の塔頭寺院。
山号は正法山、本尊は薬師如来像。
妙心寺四派(龍泉派・東海派・霊雲派・聖澤派)のうち東海派に所属し、妙心寺の46ある塔頭寺院のうち退蔵院・大心院とともに通年公開されている塔頭の1つです。
1598年(慶長3年)に織田信長の嫡男・織田信忠(のぶただ)の二男である津田秀則(織田秀則)が妙心寺73世・水庵宗掬(すいあんそうきく)を請じて「見性院(けんしょういん)」として建立したのがはじまり。
そして秀則の没後の1632年(寛永9年)、美濃の豪族である石河貞政(いしかわさだまさ)が亡父の50回忌の追善供養のために、桂南守仙(けいなんしゅせん)を請じて現在の方丈や庫裏、書院、茶室などの建築物を整備し、その際に両親の法名、父の法名「天仙守桂大禅定門」および母の法名「裳陰妙春大姉」から一字ずつを採って「桂春院」と改めました。
「方丈(本堂)」は1631年(寛永8年)の建物で、内部は狩野山雪による襖絵で飾られており、また茶室「既白庵(きはくあん)」は同じく1631年(寛永8年)、石河貞政が長浜城から書院ともに移築したものです。
方丈の東南には築山があり、三方に趣の異なる4つの庭があり、この寺院の最大の見どころとなっています。
庭園の作者や年代については明らかではありませんが、妙心寺の他の塔頭(雑華院)の庭園を作庭しており、真如の庭の7・5・3風の石組みが大徳寺方丈の東庭にみられる小堀遠州系の手法であることから、江戸初期、小堀遠州の弟子・玉淵坊(ぎょくえんぼう ?-1661)の作といわれており、1931年(昭和6年)には国の名勝・史跡に指定されました。
まず方丈北側の「清浄の庭」は、坪庭に巨岩・奇石を配し、白砂で造った清流と石組みで造った枯れ滝などが築かれています。
「侘びの庭」は、書院の前庭から飛び石伝いに茶室に通じる路地庭で、梅軒門と猿戸によって内露地と外露地に分け、苔に覆われた蹲踞が隠れるように置かれるなど、狭くても巧みに空間を利用して造られています。
方丈東側の「思惟の庭(しいのにわ)」は、左右の築山に十六羅漢石を置き、中央の敷石を座禅石に見立てて、仙境に遊ぶような雰囲気を表現しています。
最後に方丈南側の「真如の庭(しんにょ)」は、崖(がけ)を躑躅の刈り込みで覆い、その向こう側が一段低くなっていて、カエデの樹木で覆われて一面が美しく苔むし、中に置かれた庭石がさりげなく7・5・3風に配置されています。
皐月(サツキ)・霧島ツツジ・馬酔木などがバランスよく植えられて季節ごとに楽しめるほか、秋の紅葉の時期は境内の随所で紅葉を楽しむことができるのでおすすめです。